連載 伝わる言葉で伝える福音 第3回「罪」とは? PART 1

青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。

 

某メーカーの有名スナックのCM。
「♪やめられない、とまらない かっぱ○○せん♪」
おそらく日本人なら老若男女問わず誰もが知っているフレーズだろう。そして時代をさかのぼること二千年前、新約聖書の書簡の半数近くを書いたパウロもまた、このCMを歌う私たちの心情と同じ気持ちを抱いていたのだ。
今回から二回に分けて、聖書が語る「罪」という概念、これをどう表現して用いたらいいかについて、解説していこう。

ローマ人への手紙の7章に、こんなフレーズがある。
「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」(7・18〜20)
このパウロの言葉を私たちの日常に近づけてみよう。
たとえば「最近太ってきたからダイエットしないとな……」と一念発起したとしよう。体を健康に保つことは「善い」ことである。しかしそれをなかなか実行できない。食べ物の誘惑に負けてしまう。「ああ、スタバのフラペチーノばかり飲んでいては、太っちゃうよなぁ……。」そう思いながら、毎月のように繰り出される魅惑的な新製品を注文してしまう自分がいる(誰のことでしょ? そう、私です!)。
パウロが語る「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行って」いるのだ。まさに「♪やめられない、とまらない かっぱ○○せん♪」と同じ状況である。

私たちが、まだ神様のことを知らない方に「罪」という概念を伝えるとき、気をつけなければならないことがある。それは、キリスト教の神学、教理などは、そのほとんどが西洋の歴史とともに歩んできたということ。つまり「罪」という考え方も、「西洋人の思考に沿った使われ方」をされてきたのである。
だから今でもクリスチャンが伝道しようとすると、「神を知らずに歩んできたこと、これが罪です」という、クリスチャンでなければ分かるはずもないフレーズが、まことしやかに使われる。そしてその時点で、伝道対象者の心の中では「この人、何を言ってるんだ?」となり、体よく話がさえぎられることになる。八百万の神々とともに歩んできた日本の風土からは、絶対に出てこないフレーズを相手にぶつけることは、控えるべきなのだ。

私はいつも「罪」という言葉に出くわすと「♪やめられない、とまらない かっぱ○○せん♪」のフレーズが頭をよぎる。そのほうが私のリアリティにぴったりくるからだ。
もちろん「罪」とは、単に食欲に関することだけではない。クリスチャンであるか否かによらず、私たちは自分の人生のかじ取りを自ら行うことを「善し」と捉える。しかし「罪」はこのかじ取りを私たちから奪うものとなる。だから「やめられない」し、「とまらない」のである。そして「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行って」しまうという葛藤を内に抱えることになるのだ。
そう実感していたからだろう。パウロは続く24節でこう嘆息している。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

この解決は、次回お伝えしようと思う。