いのちのそばに ~病院の子どもたちと過ごす日々~ 第10回 無力さの中でいのちを見つめる

久保のどか
広島県瀬戸内の「のどか」な島で育ち、大学時代に神さまと出会う。卒業後、ニュージーランドにて神学と伝道を学ぶ。2006年より淀川キリスト教病院チャプレン室で、2020年より同病院医事部で、小児病棟、こどもホスピス、NICU病棟において子どもたちのパストラルケアに携わり、現在に至る。

 

先日、ある看護師さんがこう話してくれました。「小さな赤ちゃんが治療をがんばってくれているなかで、医療者として、あとはその子の生きる力を信じるしかないと思うことがあります。そういうときは無力さを感じます」と。医療者もいのちの現場においては無力さを感じることがあり、苦しみますが、無力であることを通して私たちは祈る者とされ、共に信じる者とされていくようにも感じています。
小さく生まれた赤ちゃんや、病気や何らかの障がいをもって生まれてきた赤ちゃんは、生まれてすぐに治療が必要となる場合があります。ときには、身体の状態が落ち着くまでしばらくは抱っこをしてもらうこともできず、保育器の中で様々な医療機器が装着されたままひとりで過ごすことになります。生まれたばかりの赤ちゃんの小さな身体の中で何が起きているのかわからないまま不安な気持ちで、保育器の中にいる我が子を見つめるお父さんやお母さんは、私などが想像もできないくらいの苦しさを体験しておられるのだろうと思います。ときには状況を受けとめられず、赤ちゃんと向き合うこと自体が苦しいと感じることもあるでしょう。まるで暗くて荒れた海の中、逆巻く波の渦に吞み込まれてしまうような心の状態なのではないかと想像します。
赤ちゃんのそばにいるお母さんたちが、「私はこの子に何もできないのに、私が会いに来ることをこの子は喜んでいるのかな?」と不安そうに言われることや、「きっと大丈夫ですよね」、「一歩一歩ですよね」、「信じるしかないですね」と自分自身に言い聞かせるようにお話しくださることがあります。お母さんたちは、自分の無力さを感じながらも赤ちゃんのいのちを信じたい、助けてほしいと願っておられます。赤ちゃんのいのちを見つめることは、お母さんたち、お父さんたちにとってご自分の人生やいのちと向き合わされることでもあるのだと私は感じています。赤ちゃんに起こっていることは、まさに自分の人生に起こっていることであり、赤ちゃんの痛みはお母さんやお父さん自身の痛みでもあるのです。
赤ちゃんが寝ている保育器やベッドにお守りが飾られているのをしばしば見かけます。ご両親がお守りを持ってきて飾っているのです。生まれたばかりの我が子が守られますように、私たち家族を助けてください、と祈りを込めて神さまに願っておられるお父さんやお母さんの気持ちを強く感じます。そのようなときに、赤ちゃんやご両親のことを神さまに「守っていてください」と祈ることしか私にはできません。ですが、お祈りするなかで感じることの一つが、私たちがいのちを信じたい、助けてほしいと願い祈ることを通して、私たちのいのちは結び合わされていくのではないかということです。神さまに祈ることは、共に無力さを差し出すことです。私たちが神さまの前に無力さを差し出すとき、共にいのちを信じる力が湧いてくるように感じることがあるのです。無力さや不安の中で小さな我が子を見つめておられるご家族が神さまにあって結び合わされ、家族としての歩みを一歩一歩進んでいかれますようにと祈らずにはいられません。
無力さの中でいのちを見つめるということを考えていて思い出すのが、イエスさまのことばです。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11・28)。
「私たちにはもう何もできない」と感じることがあります。そのとき、私たちは自分の無力さを突きつけられ、苦しみます。ですが、そのようなときにこそ、イエスさまは私たちを招いてくださっているのです。「今まで不安や戸惑いの中をよくがんばってきましたね。あなたの負っているものはすべてわたしが背負いますから、あなたは休みなさい。」 イエスさまはそう言って、私たちを抱きしめ、私たちを背負い、歩みを共に進めてくださる、と私は信じています。
イエスさまが十字架を背負ってくださるから、自らのいのちをささげて私たちの「生きる」を守ってくださるから、私たちはこの方のもとに無力さを差し出すことができるのです。そして、無力さの中にあっても、いのちを見つめ続けることができるのではないでしょうか。イエスさまの十字架のもとでいのちを見つめる者でありたいと心から願っています。