新連載 ニャン次郎の哲学的冒険 人間社会を生き抜くための西洋哲学入門 第1回 聖書と哲学 エピクロス派? ストア派?

ニャン次郎(代筆・岡村直樹)

 

ニャン次郎(主猫公)
クリスチャンで大学生の飼い主を持つ茶トラ猫。哲学の授業で困っている飼い主を助けるため、歴史上の様々な哲学者に直接会って話を聞く旅に出ることに!
岡村直樹(代筆者)
ニャン次郎の代筆者。
東京基督教大学の先生で、出身校であるトリニティー神学校ではキリスト教哲学を専攻。

 

こんにちは! ニャン次郎です。
ボクの飼い主のお兄さんは大学に通っています。大学では「近現代の西洋哲学」という授業があり、難しくて苦労しているようです。またお兄さんは日曜日に教会にも通っているのですが、教会で教わる内容と、授業で聞く様々な哲学者の考えとの間にたくさんの違いがあり、クリスチャンとしてどう受け止めたらいいのか悩んでいます。
そんなお兄さんを放っておけないボクは、有名な西洋哲学の先生たちから直接お話を聞く旅に出ることにしました。旅の報告を通して、お兄さんの役に立てればいいなあと思っています。ちなみに、肉球ではパソコンが使えないので、親友の岡ちゃんに代筆を頼みました。
今日は旅に出る前に、まずは「聖書と哲学」について、予習したことを少しお話ししたいと思います。
聖書には、「哲学」という言葉が二回出てきます。一番有名なのは、コロサイ人への手紙二章八節に書かれている、「あの空しいだましごとの哲学」という言葉かもしれません。この手紙を書いたパウロさんは、当時の哲学をあまり評価していなかったようですね。ここでパウロさんの言う「あの」が指しているのは、使徒の働き一七章一八節に登場する「エピクロス派とストア派の哲学者たち」のことだと思います。ここにも「哲学」という言葉が出てきます。
パウロさんは、アテネという町で哲学者たちと議論をしました。はじめは興味深く聞いてくれていたようですが、パウロさんが「キリストの復活」について話し始めると、彼らは「このおしゃべり」と言って、パウロさんのことをバカにしました。彼らはいったいどんなことを考えていたのでしょうか?
エピクロス派の哲学は、古代ギリシアの哲学者エピクロス(BC三四一年頃~BC二七〇年頃)によって始まりました。パウロさんが活躍した時代の三百年以上前のことです。彼らは幸福や快楽を人生の目標としており、死ぬことへの恐怖や、神々への恐れを克服することが幸せへの手がかりだと考えていました。エピクロス派は、神々の存在を否定しませんでしたが、神々は基本的に人間には無関心であり、人間の魂は、死と同時に消えてなくなると教えていました。「キリストの復活」について語るパウロさんを、彼らがバカにした理由はその辺にあるみたいですね。ちなみに、エピクロス派は快楽主義だと言われますが、過剰な欲望や贅沢を追い求めることは空しいとも主張していました。
一方のストア派は、ギリシアの哲学者ゼノン(BC三三四年頃~BC二六二年頃)によって始まったと言われています。彼らは人間の理性を重視し、感情をコントロールすることで、困難な中でも平安に生きられると説いていました。またストア派は、「徳」(善く生きる力)を重視し、富や名声、快楽を無駄であるとも考えていました。自分に厳しく、欲望に流されない人を「ストイック」と呼びますが、それは「ストア派」から来ています。
またゼノンより前にも、ストア派の哲学に大きな影響を与えた「キュニコス派」と呼ばれる哲学者もいました。その中で最も有名なのはディオゲネスでしょう。彼はある日、自分の目の前に現れたアレクサンドロス大王から「望むものがあれば何でも叶えてあげる」と言われたとき、「邪魔だからそこをどいてくれ」と言ったそうです。どれだけストイックなんでしょうか。
ちなみにストア派は、神と宇宙を同一のものと考え、聖書の語る人格的(人間的)な神を否定していました。ですからキリストという人物が、実は神なのだと言われても、受け入れることができなかったのでしょう。
さて、来月からいよいよ、近現代の西洋哲学の先生たちとお話をする旅に出かけます。ちなみに、哲学がカトリック教会の強い影響から独立して存在するようになった一七世紀初頭が、近代哲学の幕開けの時期と言われています。初回はフランス人哲学者で、「近代哲学の父」とも呼ばれるデカルト先生が登場します。
どうぞお楽しみに!
ニャン次郎でした。