連載 伝わる言葉で伝える福音 第4回「罪」とは? PART 2
青木保憲
1968年愛知県生まれ。小学校教員を経て牧師を志す。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。映画と教会での説教をこよなく愛する、一男二女の父。
前回、「罪」について、その中身をリアリティある言葉に置き換えることを提案した。今回は、「罪」に関してさらに深掘りしていこう。
実際に、相手(神様をまだご存じでない方)に「罪」についてお伝えする場合を想定してみてほしい。よく個人伝道の現場でやってしまうのが、「私は罪人です」と相手に言わせようと、あの手この手で迫ることだ。まるで使い古したチューブから歯磨き粉をひねり出すように相手を追い詰め、論破し、最後に「私には罪があります」と言わせ、「だからあなたにもイエス様が必要なんですよね」と持っていく「あのやり方」である―。
しかし、今日覚えていただきたいのは、この真逆である。つまり聖書が語る「罪」とは、他者から指摘されるものではなく、自ら見いだすものであるということ。特に現代では、このことはいくら強調してもしすぎることはない。
日本人は、往々にして他人からの指摘には頑なである。例えば、我が子について「うちの子は○○がなってない」と自分から語ることにあまり抵抗はないだろう。しかし、他人から同じことを言われると、なぜか無性に腹が立つ。
私たちは、自分のことを否定的に捉えやすい文化に生きている。しかし他人から否定的に指摘された途端、いきなり「守り」に入ってしまう。これは全世代の日本人に当てはまる傾向だと言えよう。だから、個人的に「罪」を指摘すると、相手を窮地に追い込んでしまうことになるのである。
では、どうしたらいいのだろうか? ヒントは次のパウロの言葉にある。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7・24)
これを「パウロ自身が語っている」ことが肝要だろう。彼が自分の内面を赤裸々に語っているため、私たちはこれをまず客観的に聞くことができる。他人事として「罪」の中身をまず受け止めるのだ。
しかし、人間はそんなに簡単に他人と自分を切り分けられない。同じような内面の葛藤を抱えているなら、おそらく「自分は?」と考え始める。ここにリアリティが生まれるのである。
「罪」という限定的な用語に限らず、私たちクリスチャンが最も犯しやすい過ちは、先輩の信仰者たちが生涯をかけて生み出した言葉の数々を、自分の言葉にせずに、いわゆる「キリスト教業界用語」として一瞬で相手に受け渡してしまうこと。それは「張子の虎」だ。見た目はかっこよく荘厳だが、その言葉を用いる私たちのリアリティが伴っていないため、相手にインパクトあるものとして伝わらない。
私たちは聖書が語る「罪」を伝えるとき、「罪」そのものを伝えることはできない。罪に関する自分の体験を語ることができるのみなのだ。その話のリアルを相手がつかみ取ってくれる。そして彼らは自らの罪性に気づくことができるのである。
私たちは、相手に「私は罪人です」と認めさせようとしていなかっただろうか? 「そんな罪はない」と逃げようとする人の言葉尻をつかまえて、何とか相手を罪人に仕立て上げようとしていなかっただろうか?
聖書が語る「罪」は、他人から指摘されることでは、その言葉の深い本質に到達できない。「罪」とは自ら気づくものである。他者の話を通して自分を省み、今まで表現できなかった葛藤や苦しみを客観的に見つめ直すことによって、はじめて意識できる概念なのだ。
だから一度「罪」を自覚するなら、そこからの解放を求めてキリストの福音を求めるようになるのである。
聖書が語る「罪」とは、他者から指摘されるものではなく、自ら見いだすものなのだ。
私はいつも「罪」という言葉に出くわすと「♪やめられない、とまらない かっぱ○○せん♪」のフレーズが頭をよぎる。そのほうが私のリアリティにぴったりくるからだ。
もちろん「罪」とは、単に食欲に関することだけではない。クリスチャンであるか否かによらず、私たちは自分の人生のかじ取りを自ら行うことを「善し」と捉える。しかし「罪」はこのかじ取りを私たちから奪うものとなる。だから「やめられない」し、「とまらない」のである。そして「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行って」しまうという葛藤を内に抱えることになるのだ。
そう実感していたからだろう。パウロは続く24節でこう嘆息している。
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
この解決は、次回お伝えしようと思う。