連載 神への賛美 第4回 「主の祈り」に見る賛美の恵み(4)

向日かおり むかひ・かおり
ピュアな歌声を持つゴスペルシンガー。代々のクリスチャンホームに育つ。大阪教育大学声楽科卒業、同校専攻科修了。クラシック仕込みの幅広い音域を持ち、クラシックからポップス、ゴスペルまで、幅の広いレパートリーを持つ。

 

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」
イエスさまが教えてくださった「主の祈り」の後半。今回は、この「日ごとの糧」への祈りに目を留めていきたいと思います。
日ごとの糧。英語ではDaily Bread(毎日のパン)。日本で言えば、ほかほかのご飯とお味噌汁かもしれませんね。主が「求めなさい」と言ってくださっているこの糧とは、それ以上。人間が生きる上で必要なものの象徴だと思います。

 

私は若い頃、心の病気にかかってしまった時期がありました。パンやお菓子を食べ続ける。でも、どんなに食べても埋まらない。苦しくて吐き、また食べてしまう。まるで大きなブラックホールのような穴が、自分の中に空いたようでした。
でも一方、やはりその頃に、こんな体験もしました。
夜の帰り道、とっても小さな子猫を見つけました。目ヤニで目がほとんど開かず、やせこけてぼろぼろの子猫は、道端でうずくまっていました。私はすぐ温めたミルクを持って来ました。子猫は弱々しく立ち上がったのですが、目指したのはミルクではなく、私の手のほうだったのです。私の心に応えるように体を預け、甘えて鳴くのです。私の心は張り裂けそうになりました。そして、この子猫を心から愛おしく思いました。
残念ながらこの子猫を連れて帰ることはできず、会えたのはこの夜一度きりでした。でも、この子猫のことを一生忘れることはないでしょう。
私たちが神様を求める心も、この子猫のようではないでしょうか。食べ物を得ることは切実です。でも、それ以上に、私たちの魂を本当に生かし、立たせるものは、主の温かい御手なのだと思います。人間にできることは限りがあっても、主は永遠の御腕で私たちを抱き、「御国」という大きなホームに招き入れてくださるのです。
また、イエス様ご自身が、天から降られたパンだと聖書は教えています。深い穴が空いたようで、何を食べても埋まらなかった私は、この方に真に出会えた時、魂の中の闇そのものが吹っ飛んだ経験をしました。それまでは聖書のみことばを聞いても虚しいばかりだったのに、それらが腹の中に落ちてきたのです。
みことばは糧。文字どおり私たちの腹を満たすもの。そして日々の食事が私たちの体を作るように、私たちの霊と存在そのものを、新しく形作ってくれるのです。

 

この頃とみに思うのです。この祈り、「私」のためだけでなく、「私たちの」と祈れるところに、大きな恵みがあるのだと。「私」の益、「私」の生き方、「私」の人生。以前の私を縛っていたのは、この「私」を中心にする人生の捉え方だったように思います。
でも、天に目を上げ、「私たち」と目線を変える。「私たち」の益、「私たち」神の家族の必要を見、共に立つことを覚え、共に祈る時、私たちの心は変えられます。大きく広やかな神の国のあり方に導き入れてもらえるのです。
私たちが教会において、霊的な糧を求める時も、やはりこの、共にあるところに豊かな恵みがあると思います。
コロナ禍の時、実際に人が集まることが減り、礼拝さえインターネットを介していた時期がありました。自分の家で礼拝を守れることにも恵みはあります。が、そうなるともう、集まることに意味を見いだせないという声すら聞こえてきました。
しかし、主が教えてくださるのは、「私たち」で祈り、礼拝することです。祈りの声をあげる。賛美の声をあげる。会場に満ちる兄弟姉妹の声と、自分の声が、主に向かってひとつとされる。それはどれほど麗しいことでしょう。
「なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。
彼らはいつも あなたをほめたたえています。」
(詩篇84・4)
主と共に住む「私たち」の場所には、いつも賛美が満ちるのです。
天のお父様は、「私たち」家族がひとつの心、ひとつの霊で、共に生き、礼拝をささげることを、心から願っておられます。私たちが愛し合うことこそ、主のみこころです。そのみこころに生きるところに神の国はあるのです。
それはなんと幸いなことでしょう。天のお父様は、私たちの必要を、本当にご存じのお方です。