被爆60年 キリスト者として 「二度と闘いを習わない」この日を待ち望み
水野保羅
基督兄弟団 札幌教会牧師
私にとって悪夢のような広島での被爆から六十年が過ぎた。当時の生き地獄のようだった惨状を想い出す。今は被爆したことを忘れたいと思う反面、もし私が広島で被爆しなかったら、献身して伝道者になっていなかったとも思っている。
被爆地は七十年は草が生えず、被爆者は長生きできないと言われていたが、私は今年七十七の喜寿を迎え、牧師になって五十年が過ぎた。
ヒロシマでの実験
一九四五年、全国の主要都市がほとんど米軍の空襲で焼き払われていると噂が流れていたのに、軍都と呼ばれていた広島は、六月になっても無傷で残り、時たまボーイングB29爆撃機が白い飛行雲で弧を描きながら旋回するくらいだった。それが、七月に入るとグラマンと呼ばれる戦闘機が一度に数百機も広島市街の上空を飛び廻り、短時間で引揚げるようになった。寄せては返す波のように一日に十回も二十回もと思うほどで、しかも焼夷弾一つ落とさず、機銃の一発も撃たず、入り乱れて低空で飛びまわるだけで何一つ攻撃せずに引き揚げる。それが一か月、原爆投下まで続いた。
米軍はどの時間が路上に人影が最も多いかを調べていたのだと、私は後にある記録文書で知った。路上に通勤者の多い八時十五分を設定し、広島のすべての警報を解除させる作戦をとり、投下した。
アメリカは被爆二年後に原爆障害調査委員会(ABCC)を創設したが、被爆者をモルモットよろしく検査だけ行い治療は拒否した。
被爆者団体がアメリカに憎しみさえ抱いて反核運動をするのも理解できる。
運動に参加して
一九六一年に、私は札幌の開拓伝道を任じられそこに赴き、四年目、三十七歳で会堂建築に取り組んだ。そのことが日刊紙に掲載された。《一人の被爆者の牧師が平和を祈りながら教会建築に汗を流している》という記事だった。それを目にした北海道被爆者団体の役員が来訪された。北海道には被爆後の広島市内で死体の運搬と火葬作業などに従事して帰還した元兵士が千人ほどいるとのことだった。中には残留放射能障害で健康を害している人も多いと聞いた。
私も被爆者団体の会員になってつながりができた。被爆者団体は、原水爆禁止、核廃絶と被爆者援護の運動団体であった。一年に一度、八月六日の被爆記念日に追悼会があって顔を合わせるくらいの付き合いだったが、世界情勢とともに、政治的なイデオロギーが強くなっていった。運動に参加すればするほど、私は違和感を増していった。そして世の人々が「水原爆廃止」を訴える中で、私はクリスチャンとして何か違うものを感じていた。
『原爆と十字架』
二十年近く前になるが、私は被爆体験をつづった『原爆と十字架』を自費出版した。その中に「個人の意見であるがアメリカが原爆を使ったことを赦そうではないか!と言いたい」(一〇二頁)と書いた。さっそく被爆者団体の会長からクレームが出た。彼らは常々「原爆を使ったアメリカを絶対に赦さない。あれは毒ガスと同じく国際法違反だ」と言っていた。私は「では、憎しみを抱いて運動を進めてどんな解決ができますか」と反問した。「それは!」と絶句された。
キリストの福音は神の愛と赦しだと言えよう。そして永遠の生命である。聖書からこれを抜きにすると何もなくなると言ってもよいと思う。
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鍬に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザヤ書二章四節)。
国連も、どの陣営も平和への道を知らないのである(同五十九章八節)。私は、このときを待って祈っている。
世界へ