夫が教会に行くまでに (前半)

日本の教会には、夫の救いを心から願ってやまない多くの妻たちが存在する。
夫たちにどのように信仰をつたえればいいのだろうか。
特集では、ひとつ教会の事例から、夫たちが信仰を持つようになっていった様子を紹介する。

考える夫
 ある平日の昼下がり。五人の男性クリスチャンが、首都圏郊外にあるO教会に集まってくださった。当教会には、二十人以上、元「未信者の夫」がいるが、彼らのうち四人がそうだ。彼らが信仰を持ったきっかけは、なんだったのだろう。

「私は定年を前にして子会社へ移り、日曜日があくようになったので、妻と一緒に教会に来るようになりました。七、八年前のことです。それからいろいろと考えを整理し、二〇〇〇年に洗礼を受けました」(Aさん)

「私は中学生の時に洗礼を受けましたが、まじめなクリスチャンではありませんでした。二年半前に大病を患って半年間入院、その回復後、こうしてみなさんと一緒に信仰生活を歩ませてもらっています」(Bさん)

「私はサラリーマンで、帰宅はいつも午前様、日曜日は体を休めるための時間でした。家族と過ごす時間も少なく、家族には思い出がないと言われます(苦笑)。定年を迎えてこれからの人生を考え、すばらしい仲間ができると思ったので信仰を持つようになりました」(Cさん)

「クリスチャンである妻が教会でお世話になっていたので、たまに教会に来ていました。家族を大切にしたい、信仰をともに持ちたいと考えていました」(Dさん)

「先にクリスチャンになっていた妻たちが、夫たちを誘ってバーベキューをするという催しが最初のきっかけでした。それから、夫たちで聖書を一緒に読んだり、酒を飲みながらいろんな話をする中で、自分が信仰を持つことを決断しました」(Eさん)

今回、お話をうかがったのは、定年退職を迎えた方々。会社勤めを終え、時間的な余裕ができ、新しい人生のあり方を模索する中で、信仰を持つ決断をしていったようだ。

夫の救いを願い続ける妻たち

 この教会では、五十代、六十代の女性クリスチャンが多い。約二十五年ほど前、当時三十代であった女性たちが、次々と救いに導かれてきたことが背景にある。この女性たちは、熱心な信仰生活を続け、友が友を救いに導き、教会の活動でも大きな働きを続けてきた。

 彼女たちの一番の願いは、「夫が救いに導かれること」。夫の救いのために祈り、日々の努力を重ねてきた。今まで以上に良き妻として家庭に仕えること、さりげなく教会の話題を口にしたり、食卓に集会案内のちらしをおくこと、教会の愚痴を決して家庭では言わないこと、などなど。だが、のれんに腕押し、教会に誘っても剣もほろろ。現役サラリーマンとして、社会の最前線で活躍する夫たちに、妻の思いがなかなか届かないことが多かった。

 妻たちは、夫の救いを願い続けて信仰生活を歩んできた。ときに熱心に誘ってみたり、あるいはあきらめてしまったり、それぞれに紆余曲折を経ている。今、夫たちが信仰を持っているのは、二十年以上の妻たちの積み重ねがあってのことだ。

 そしてなお、今でも夫の救いを求めて、神に祈り求めている女性が多く存在している。妻が良いクリスチャンだからといって、夫がクリスチャンになるわけではない。「こんな私の夫が導かれたのは、神のあわれみ以外にありません」と、夫が救いに導かれた妻たちは口をそろえる。

気軽に自由に語り合える場として

 夫たちと教会とのかかわりができたのは、十数年前にさかのぼる。彼らが聖書研究をする機会を得たのだ。この聖書研究会が「教会は堅苦しいところ」というイメージから脱却し、本来の教会の姿を理解する場となった。

 最初、牧師が帰った後お酒を飲むことを楽しみに、聖書を学ぶ会を持った。「学ぶというよりも、それぞれが好きなことを自由に発言」する一時間だった。そして、会の最後に牧師が「少しだけ」まとめをする。それは、自由な発言を歓迎し、聖書の本質を手短に伝えるものだった。

 「牧師は、決して自分たちの意見を否定することなく、聖書のメッセージをうまく伝えてくれました。男は、強制されたり、意見を拒否されたりすると二度と来るかと思いますが、うまく対応してもらったと思います」(Eさん)牧師は、メンバーの意見をよく聞くこと、どのような意見でも否定せず受け止めること、教えようとはせず自分で考えるように勧めること、枝葉のことではなく福音の本質を理解させること、一人ひとりとの人間関係を大切にすることなどを、心がけてきたと言う。また、社会の最前線で活躍する男性たちの発言から学ぶことも多かった、と振り返る。

信仰を持つことへの障害

 教会とのかかわりを持ち始め、礼拝に出席するようになった夫たちには、クリスチャンになったら「してはならない」ことに縛られてしまうのでは、という危惧があったようだ。

「建設会社で働いていたので地鎮祭などもよくありました。そう言った意味でもキリスト教の信仰を持つことには躊躇がありました」(Dさん)

「地鎮祭などの行事には、仕事の都合などでどうしても出ざるを得ない。私も、洗礼を受ける前に『どうしたらいいか』と牧師に尋ねたことがあります。それに対して、仕事における責任を理解してくれたことで、洗礼を受ける決心につながったと思います」(Eさん)

「そのときはね、社会で責任を果たすために、葬儀で焼香してあげることが必要だって考えていました。私は、それがだめなら洗礼を受けない、と言いました。でもね、今は焼香はしません。お参りも断っています。自分はクリスチャンなので、と正々堂々と言いますしね」(Aさん)

「現役を引退した今でこそ、葬儀の時に黙礼で済まされるけれども、現役時代はそうはいかなかったですよね」(Dさん)

もちろん、この教会では、行事への参加、焼香をあげるなどの行為を是認しているわけではない。むしろ、バプテスマ準備クラスでは、葬儀などに参加しても、焼香をあげることを避けることによって、積極的に証しをするように勧めている。

 ただ、未信者の夫たちは、まずイエス・キリストの福音そのものに目をとめて、それを受け入れることを勧められてきた。福音を真に受け入れ、クリスチャンとしての神観、世界観、価値観を理解したときに、それぞれがこれらの問題を判断できるようになっていくからだ。