男性たちよ、勇気を持とう。 霊的勇気が自分と家族を変える(後半)
上沼昌雄
「聖書と神学のミニストリー」代表
秩序を回復する勇気
第三に必要とする勇気は、神の秩序を回復していく勇気です。キリストと一つとされることで、キリストを通して約束されている神の秩序を、妻との間で、子どもたちに対して、社会にあって回復していく勇気です。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません」(エペソ六章四節)とあります。私たち男性は、どこかで子どもの心に怒りを積み重ねてしまいます。それは私たちのなかに父親に対する怒りがあるからです。繰り返しているだけです。ダビデの子であるアブシャロムの中にも見ることができます。子どもたちが私たちをみて信仰に入ることができないのです。男性集会をしてきて知らされた霊的な深刻な課題です。家庭と社会の崩壊をもたらしています。
キリストを通して「アバ、父」と神を認めて、父なる神のもとに帰っていくのは、放蕩息子のたとえそのとおりです。そこには信じられないほどの豊かな回復の道が備えられています。三位一体の神の奥義です。子どもに見本を見せようとする必要はありません。神の子どもであることを喜んだらよいのです。もう一度子どもになれるのです。そんな私たちを見て、子どもたちは父なる神を知るのです。
「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」(Ⅰコリント一一章三節)とあります。男が女のかしらであるというのは、キリストが男のかしらであるということから来ています。キリストが私たちを解放するために神に従われた、そのとおりに、私たちもキリストに従うことで女性を解放していくことです。かしらであるというのは、支配することではありません。仕えることです。生かすために仕えることです。
妻の話を聞くことは、言いなりになることではありません。妻と向き合ってこちらの話をしっかりと伝えていくことです。妻が道からそれているときにノーとはっきりと言うことです。アダムができなかったことを果たすことです。操作することでも、支配することでもなく、霊的な判断力をもって導くことです。大変難しい役割です。勇気がいります。夫婦関係が一時は難しくなることもあります。
子どもが道に迷っているときには、子どもの自主性を生かしながら助言を与えていくことです。神は、子である私たちを生かすように助言をくれます。時には道をはっきり示さないときもあります。失敗をも忍耐をもって見守ってくれます。神の取り扱いを知っているので、子どもたちを同じように取り扱うことができます。
神の秩序を回復するためには、神に喜ばれることを見分けていく判断力が求められます。そのためには神のみ声に静かに耳を傾けていく霊的勇気が求められます。神とひとりで会話をする勇気です。神とだけ時間を過ごす勇気です。荒野に出ていく勇気です。荒野の誘惑を覚悟する勇気です。
プライドや支配欲からの解放
霊的なことは、勇気が求められます。怠惰に陥りやすいからです。安易な道に流れやすいからです。教えにすり替えられてしまうからです。プログラムでは身に付かないからです。霊的なことは、神と自分との間だけの厳しいものです。ひとりで裸になって神の前に出ていかなければなりません。出ていく助けを人からいただくことはできます。しかし出ていくのは自分だけです。家族のことも忘れて神の前に出ていくのです。
霊的なことは、変容をもたらします。裸で神の前に出ていくので、神の思いのままに変えられていきます。期待できます。しかし計算できることではありません。新しい恵みを経験し、家族にも届けていくことができます。
霊的なことは、自由をもたらします。プライドや支配欲から解放されます。自分自身から解放され、妻を自由にし、子どもたちの自主性を生かすことができます。人生を受容し、家族を喜び、神に感謝することができるのです。