男性たちよ、勇気を持とう。 男性が悔い改めるとき
山中知義
横浜オンヌリ・キリスト教会牧師
神学生時代、親しくしていた教授が突然、その職を失うことになった。私は彼を尊敬していたし、信仰の先輩として慕っていた。共に食事をしたりする師弟の間柄だった。その彼がなぜ職を追われたのか。想像もできないことが原因だった。不倫だった。
私はショックと深い悲しみを覚えたが、彼を憎むことはなかった。すぐに彼に手紙を書き、私の友情は変わっていないと告げた。しかし返事はなかった。
この事件は、すぐさま私の記憶から消えていった。このような事件が起こるのは、極めてまれなこと、例外的なことと決め付け、どこか、「対岸の火事」として見ていたからだろう。しかし、事実は違った。
数年後、私は再び心から尊敬する人物が、金銭問題で職場を離れるのを見た。しかし今回は、「対岸の火事」と決め込むことのできない近距離に私はいた。疑い、批判、隠蔽、分裂、責任転嫁、偽善とあらゆる悪が、その場を支配していった。
この出来事は、私の人生を変えた。被害者意識ではない。私はそのとき悪に対して悪で報いるという取り返しのつかない大きな失敗を犯してしまったのだ。結果、多くの愛する人々に深い傷を負わせることになってしまった。それでも私は反省乏しく、まるで足のちりを払うように、その地を後にした。怒っていた。傷ついていた。そして聖職への夢は消え、献身者としての道を断念した。
しかし、愛する家族や友人たちの、ひとかたならない励ましと祈りによって、私の心はゆっくりといやされていった。時間が、過去を振り返り、自己を反省する余裕を与えてくれた。そして新しく通い始め、現在勤めているオンヌリ教会の牧師たちとの出会いが、聖職と教会への夢を回復してくれた。そんなとき、友人が本書『アダムの沈黙』を紹介してくれた。恐ろしいほど完璧なタイミングと内容だった。
著者のラリー・クラブ師は、ここに極めて深刻なテーマを取り扱っていた。愛すべき者たちを傷つけ、破壊する、男の罪性を一枚一枚ベールをはがすように解き明かしていた。そこには私が知らなければならなかったこと、勇気を出して認めねばならなかったこと、そして再び立ち上がり、歩み始めねばならなかった神の方向が明確に示されていた。
クラブ師は言う。男性とはだれでも、独特で深遠なある力を授かって生まれて来る、と。師はそれを「男性力」と表現している。しかしほとんどの男性はそれを愛と創造性へ働かせるより、自己中心的なニーズの充足に用いるのである。
さらに男とは、言動や行動を巧みに転嫁し隠蔽する作業も同時に、そして無意識にこなせてしまうのである。そういう方向に自分が総力を投じて生きてきたという事実をほとんどの男は気づいていないし、かたくなに認めようとしないのだ。
私は、本書における著者たちの赤裸々な告白の前に認めざるを得なかった。自分も、そういう卑怯で、「男らしくない」人間であった事実を。そして「私が犯した罪のほうが、はるかに大きかった」という事実を。私は、この悔い改めから新しいスタートを切らねばならなかったのだ。本書の翻訳は、その決意の表明としての仕事だった。
京都のある教会で起きた忌まわしい少女虐待事件を思い出してほしい。なぜそのような状況の異常さに、周りは何年も気づかなかったのか。どうしてそれほどの期間、だれも何もできなかったのか。「アダムの沈黙」という言葉が表しているのが、この扇動的で、洗脳的で、破壊的な力なのである。そしてそれは、すべての男性に例外なく詰め寄る影であり、勇気を出して振り切る以外に選択は与えられていない血みどろの戦いなのである。
本書との出会いは、私に新しい気づきと悔い改め、そして「再出発の恵み」を与えてくれた。今、私は傷を負いながらも希望に満ちている。
愛すべき男性クリスチャンの皆さん。同じ恵みがあなたにも注がれることを祈ります。そして「アダムの沈黙」が破られるときに始まる「男の内なるリバイバル」を、あなたと一緒に日本全国に灯していきたいと切願しています。