Opus Dei オペラな日々 第4回 静寂の豊かさ
稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者
私は西洋音楽に携わる人間ですが、日本人としての血は隠せません。「もののあわれ」と申しましょうか、*うれい*を帯びたような情景や心象に最も*自然*を感じるのです。夏の輝かしさよりも冬の憂愁を、名月よりも*おぼろ月*を、完全に実った木よりも一つ二つの実しか残っていない木のほうに*いぶし銀*のような深さと豊かさを感じます。
生命力に満ちた季節の頂点である夏を経て、すべてが静寂に帰っていく秋、今月号ではそんな*静寂*の素晴らしさについて思いを巡らしてみましょう。
間は魔に通じる
演奏において、*静寂*は休止符にあたります。実は演奏者にとっては、音を奏でることよりも、いかにこの休止符を扱うかが、大切な「表現」なのです。日本語には、ちぐはぐな間を取ると*間抜け*になるというおもしろい表現がありますが、歌舞伎役者の市川猿之助氏が言う「間は魔に通じる」(間を取り損なってしまうと奈落の底、悪魔の館に通じてしまう)という格言も深い真理を含んでいるように思います。
ある程度までの発声法を会得した歌手が声を出すとき、音量的には、さほど差が出ないように私は思います。しかし、休止符の取り方、感じ方によって、その歌手にしかない、世界でたったひとつの個性が生じてくるのです。
たとえば、一拍の休みで深く豊かに一息つくならば、音楽全体を深めることになります。逆に早鐘をたたきつけるように性急に呼吸をすれば、音楽を煽り立てることに、あるいはまったく呼吸をせず休符をやり過ごしてしまうならば、音楽を閉塞させることになります。
休止符(間)でどのように*一息*つくのかによって、音楽の性格と、それを演奏する演奏者の性格が決まると言ってもよいかと思います。
クリスチャンの性格も、平日の活動の日々より、*安息日*の過ごし方によって決まるのではないでしょうか?
演奏家は空間恐怖症?
私たち演奏家は、音を出さない無音の空間に恐怖を感じるという本能的な特性を持っています。何か音を発していなければ自分の存在がなくなってしまうのではないかという、いわゆる*空間恐怖症*に陥ってしまうことがあります。あるいは早く音を出して演奏を終え、演奏の重圧から開放されたいという焦燥感、また早く音を出してお客様の反応、評価を得たいという気持ち、いずれにしても自分の思いの*勇み足*ということでしょうか。
しかし先ほど述べたように、音楽の性格を決定付けるのは音のエネルギーではなく、休止符(間)での呼吸の在り方です。音そのものに思い入れをするより、呼吸から音楽が生み出されるという流れを味わうほうが、より的確な音楽表現となります。
喜びや感動の息が*高鳴る調べ*になるのであり、*高鳴る調べ*を聴き歌うことによって感動の息を思い起こすのではありません。日常生活でも同じです。たとえば驚いた時、ハッと息をのんでから「びっくりした!」と言うのであって、「びっくりした!」と叫んでからハッと息をのむのではありません。呼吸は音楽表現だけでなく、すべての自己表現の基となっているのです。
豊かに生かされるとき
音楽のための間なのか? 間のための音楽なのか?この問いは次の問いにもつながります。
人は働くために休むのか? 休むために働くのか?
私は、人は憩うために働くのではないかと考えています。人にとって仕事はあくまでも手段であって、目的はより豊かな自分になること、憩うことにあるからです。
本当の意味での憩い、すなわちレジャーは静けさの中で神様と交わり、自分の働きの実りを味わい、より豊かになった自分をみて、感謝の心を持って休むことです。レジャーはギリシャ語で*スホレー*、ラテン語の*スコラ=学校*はこの*スホレー*を語源にしています。レジャーはもともと精神的で哲学的なものであり、神や人と語り合う、落ち着いた行動のことを指すのです。
憩いのなかで、自分の活動に思いを巡らすことによって、活動の忙しさに流されることなく、むしろ活動のなかに生きぬくことができます。憩いの静寂は、自分が豊かに育くまれ、生かされる場なのです。