新約聖書よもやま裏話 第4回 初めはユダヤ教だった 新約時代の聖書とは
伊藤明生
東京基督教大学教授
新約聖書時代には、新約聖書がなかったと言うと、驚かれる方もいるかもしれない。今ここで言う「新約聖書時代」とは、今の新約聖書を構成する各書が徐々に執筆されつつあった、主イエス、ペテロなどの弟子たち、パウロが活躍していた時代のことである。
二十一世紀に生きる私たちにとって、キリスト教とユダヤ教はまったく別の独立した宗教である。ところが、二千年前の新約聖書の時代は、旧約聖書を土台にした世界であった。一言で言えば、「ユダヤ教」の世界であった。
新約聖書を読んでみると、イエスは週の最後の日(つまり土曜日)、安息日にユダヤ教の会堂に出かけて行き、「ユダヤ教」の礼拝を他のユダヤ教徒たちと共にささげていたことが分かる。
イエス自身もユダヤ人であったし、当時のユダヤ教の枠内に留まり続けていた。たしかに新約聖書には、イエスはパリサイ人と律法学者などと旧約聖書律法の解釈・実践について議論をしている場面もでてくる。だか、イエスはユダヤ教から逸脱しようとしたのではなく、当時のユダヤ教を改革、あるいは旧約聖書で意図された真のユダヤ教の姿を取り戻そうとしていたのである。
ユダヤ教の会堂で奨励
使徒の働きに描かれているパウロらの伝道の様子はたいへん興味深い。パウロは新しい地に着くと、安息日には会堂に出かけた。「キリスト教」の伝道者である「異邦人への使徒」パウロが、安息日の「ユダヤ教」の会堂の礼拝に出席していたのだ。
しかも、ただ単に出席しただけではなかった。使徒の働き一三章には、パウロとバルナバとがピシデヤのアンテオケで会堂の礼拝に出席した様子が記されているが、そこには礼拝の中で、旧約聖書の律法と預言書から聖書朗読がなされた後、パウロは請われて、聖書、旧約聖書に基づいて奨励のことばを語っている。
使徒の働きを読み進めると、パウロの奨励の内容はキリスト教のメッセージであることに気づく。イエスがよみがえられたこと、イエスこそがユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤであることが語られている。ユダヤ教とキリスト教とがまったく分離してしまった現代には、ありえない光景である。
ユダヤ教改宗が救いの条件?
ところが、パウロたちの異邦人(非ユダヤ教徒)伝道が進むと、異邦人の救いの「条件」が問題となってきた。
私たちには、驚くべきことであるが、当時のユダヤ人にとっては、神の民とは、あくまでもユダヤ人、ユダヤ教徒のみであった。そして、非ユダヤ教徒である異邦人は汚れた存在であった。
そのためイエスがメシヤと信じるキリスト者の中でも、異邦人たちが神の民の一員になるには、キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて律法を守る(つまり「ユダヤ教」に改宗する)ことが当然、必要であると考えられていたのである。
「エルサレム会議」(使徒の働き一五章)では、救いには割礼が必要か否かが話し合われている。また、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙などから、当時の状況を垣間見ることができる。
そういったユダヤ教の世界の中で異邦人たちが救われ、「キリスト教会」に受け入れられていく過程は注目に価する。使徒の働き十章に描かれているローマの百人隊長コルネリオの回心の描写は、異邦人たちが救われた例として非常に興味深い。
ペテロには、そもそも異邦人に伝道することは念頭にはなかった。しかし、コルネリオがペテロのもとに遣わした使者が到着する前に、ペテロは幻を見る。その幻の中でペテロは、神からきよくない動物をほふって食べるように命じられる。それは律法を守ってきたユダヤ人であるペテロには、信じられない命令であった。
旧約聖書の律法では、反芻するしない、ひづめが分かれているいないで、きよい動物ときよくない動物とが大きく分類されている。ユダヤ人たちが食用を許され、聖なる神にいけにえとして献げる動物はきよい動物のみであった。きよくない動物は食べることも、いけにえとして献げることも禁じられていた。きよくない動物として有名なのは、豚である。
幻の最後に、神の御声はペテロに「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と宣告する。神の御声がペテロに語りかけていたのは、異邦人にも伝道すべきだ、と言うことである。
コルネリオの救いについて
ルカは使徒の働き十章に、その幻を見た後、どのようにペテロが導かれてコルネリオを訪ね伝道したか、さらにどのようにコルネリオの家族が信じて救われたかを詳細に書き記している。
初期のキリスト教会は「ユダヤ教」的な発想に縛られていた。しかし、神の導きの結果、その束縛から解かれ、異邦人であったコルネリオが救われたことを、ルカは明らかにしているのだ。