聖書は「性」をどう語るのか 聖書の語る性は非現実的なものではなく
高木 実
キリスト者学生会
もうずいぶん前のことですが、こんなことがありました。クリスチャンの女子学生が相談にきました。ノンクリスチャンの男子学生と交際をしていて、性的な関係を求められるのだけれど、どのように対処したらよいのか、という相談でした。すると、そばにいた大学一年生の女の子が「先輩。愛し合っているなら、いいんじゃないですか?」と言うのです。彼女もクリスチャンですので、「ちょっと待ってよ! そういうことじゃあないんだよねえ~」ということで、当初の課題は横において、相談に来ていた上級生と私とで、その女子学生の認識を改めてもらうべく聖書の性に関する教育的指導(?)のひとときが始まりました。
彼女は、それまで一度も結婚前の性交渉を避けるという聖書の価値観について聞いたことがなかったそうです。聖書信仰に伴う生き方と、「愛し合っているなら、結婚前でもよいのだ」という時代の風潮とが、何の矛盾もなく共存してしまうのです。
現代の若者たちが手にして読むことのできる漫画、毎週見ているテレビドラマなどは、まさにそのような現代の性に関する無制限な自由を前提とした価値観に満ちています。聖書の性に関する教えを学ぶ機会がなければ、そのような価値観に強く影響され、それが当たり前のように思えてきたとしても、仕方のないことなのかもしれません。だからこそ、中学生からでも、いや小学生からでも、予防注射のように、聖書の価値観についてしっかりと教える機会を今以上に意識的に作ることが大事だと思います。
若者の現状
キリスト者学生会(KGK)の活動の中でも、学生たちにとって「恋愛・結婚」そして、さらに「性」というテーマは、けっして避けて通れない、きわめて現実的で緊急性を帯びた課題として、繰り返し繰り返し取り組んでいます。キャンプや合宿での分科会だけではなく、このようなテーマをメインにした合宿をすることもあります。そのような中、ここ数年で気にかかるようになったことのひとつは、クリスチャンの学生たちから「聖書のどこに、結婚前に性的な関係を持つことを禁じている教えがあるのか?」という質問を受けることが増えてきたことです。
以前は、それを当然の前提として聖書から、あるいは具体的なことも含めて話ができたのですが、最近では、まずそのようなことから説明が必要になってきているのです。
この質問も、その口調によって意図していることがだいぶ違ってきます。挑戦的に、あるいは反発心を抱きつつ「だいたい聖書のいったいどこにそんなことが書いてあるんだよお~?」ということもありうるでしょう。しかし、KGKの学生たちの場合の多くは、「本当に聖書がそう言っているのであれば、従わなくてはならないし、従いたい。でも、それは自分たちが生きている現実の世界、まわりの友人たちとの世界とあまりにもかけ離れている。でも本当にそうなら、いったいどこに書いてあるのか、ちゃんと知っておいて、自分なりの確信を持っておきたい!」というような、ある種の切実な叫びのようにも私には聞こえるのです。それほど彼らがさらされている現実の嵐は激しく厳しいのです。
そして時に、その現実の中で失敗をし、罪の泥沼の中にのめり込んでしまい、著しく傷ついて痛々しいほどの経験をしていることを知らされることがあります。そのような経験からの回復といやしを考えるということも大切な課題だと思います。
聖書のどこに?
さて「聖書のどこに書いてあるのか?」という課題も、改めて意識してみると「ここを読みさえすればだれにでも明白!」と言えるような聖句が意外にもないのです(と断言することは控えたほうがよいかもしれませんが……)。とかく私たちは聖書に基づいた生き方を探り求める時に、プルーフ・テキスティング的に、つまり「ほら、ここにこう書いてあるから……」と一節か二節を断片的に引用して、ある特定な性的行為が禁止されているのか否かの判断を手っ取り早く片付けてしまいたくなる傾向があります。しかし、このようなことをどうとらえるかということは、短絡的な解釈をしてしまわないためのよい訓練の機会にもなるのではないでしょうか。大事なことは聖書全体の教えや主要な教え(たとえば神論、人間論など)を理解し、それとの調和の中で「性」を全人格的なこととして統合的にとらえ、その具体的な適用として、私たちはどうあるべきかをとらえる、ということです。そのためには創世記の一章から三章にかけては絶好のテキストだと思います。
時代の要請もあって、クリスチャンの若者たちが読める「性」に関して具体的なことを教える書籍も増えてきたようです。しかし聖書の文脈の中で「性」について学び、かつ聖書そのものも学ぶことができれば、聖書の学びと私たちの現実的な生活とがまったくかけ離れた別々のものではなく、むしろ深く関係しているものであることがわかってもらえるのではないかと期待しています。拙著『生と性 創世記1─3章にみる「男と女」』が、そのようなことのための一助になれば、との思いで執筆しました。