ビデオ 試写室◆ ビデオ評 103 ― イエス伝 観比べシリーズ ―
役者が消えて、キリストに触れる


古川第一郎
日本キリスト改革派 南越谷コイノニア教会牧師

最初にお詫びをします。先月号で,マックス・フォン・シドーを「オーストラリアの名優」と紹介しましたが、彼の国はスウェーデンでした。謹んで訂正させていただきます。

 さて、いろいろなイエス伝映画の「観比べ」をしてきました。今回はその最終回として、『偉大な生涯の物語』を作ったジョージ・スティーブンス監督の二つの言葉をご紹介します。

[1]「映画の素晴らしさは、役者の演技じゃない。君ら(役者)が作るその場の空気だ。それが観る人々を魅了するのだ。」

 演技の技術以上に、そこにかもし出される“空気”が、映画を作るというのです。俳優がイエスやマリヤをどんなに上手に演じても、イエスでもマグダラのマリヤでもありません。しかし、そこに流れる空気は、もはや役者の空気ではなく、実際のイエス様とマリヤの間に流れていたものに限りなく近い空気のはずです。その空気を想像力の限りを尽くして感じ取り、観る人々にも感じさせること。これが映画を含めた「芸術」の役割でしょう。

[2]「演じる彼らをカメラが撮る。君(観衆)はカメラのはるか後方に座って、フィルムで彼らを見る。しかし血は見えず、ただ影だけが見える。監督の仕事は、その影の中に血を戻して見せることだ。」

 私たちが見るのは、役者の「姿」だけです。それは「イエス様の格好をした役者」の姿に過ぎません。つまり「影」です。しかし、監督はそこに「血」を戻す。誰の「血」でしょうか?役者の「血」ではなく、イエス様の内で脈打っていた「血」、マリヤの中で煮えたぎっていた「血」です。そのとき、俳優の影は消えてなくなり、私たちはイエス様と触れ合っているはずです。

 ただ、監督や俳優その他何千人のスタッフが、精一杯の努力をしても、その映画を通して伝えられる「血」は、ほんの一部ですから、一つの作品を観て「キリストがわかる」ということはありません。また別の作品が、キリストの別の「血」や「空気」を伝えるでしょう。作品が何万本になっても、まだキリストは神秘に包まれています。

 ただ、観る人が「今求めているキリスト」を感じたとき、その作品が大好きになるのです。それから聖書に戻っていくと、福音書の記事の中に、それまで感じなかった空気や血や命を感じられるようになるのです。 「もっともっと、イエス様の血を感じ、空気を感じてみたい」。これが「観比べ」の後に残った私の思いです。

 もう紙面がありませんが、もう一つだけ、歴史的な作品をご紹介しておきます。1935年にフランスで作られた『ゴルゴダの丘』です。名優ジャン・ギャバンがピラトを、アリ・ボールがヘロデを、そしてロベール・ル・ヴィギャンがイエスを演じています。エルサレム入場から復活までの一週間、場面が変わるたびに空が変わります。全地が暗くなった日食や、嵐、夕日、復活の朝。銀幕でこんなに豊かに表現できることにも驚きます。一度も笑わないイエス様ですが、やはりすばらしい空気が伝わってきます。フランス映画全盛期を築いたジュリアン・デュヴィヴィエ監督の秀作です。