戦争を知らないあなたへ 自分たちが殺されるだけではない

鈴木伶子
キリスト者平和ネット代表

 六歳で自分の死を予感する、そういう異常な体験で私の人生は始まりました。

 一九四五(昭和二〇)年三月一〇日、東京の本郷中央教会の牧師館に住んでいた私の家では、下の妹が生まれて三日目。私は、分身のように可愛がっていた園子ちゃんという人形を「赤ちゃん」に貸して寝ました。空襲警報が出たと夜中に父に起こされ、外を見ると、夜空一面に赤や黄色のキラキラ光るものが落ちていました。それが油脂の詰まった焼夷弾で、東京の下町一帯を一晩で燃やし尽くすものだとは知りませんでした。「今夜は危ない」と父が言い、隣のコンクリート造りの教会堂に移りました。

 教会の事務室にいた私たちに、牧師館も焼けたという知らせが入りました。その瞬間、園子ちゃんが焼けた、次は自分も焼けると思いました。事務室の空気も熱くなり、掲示の紙が風でくるっと巻き上がっているのをぼんやり見ていた私を父が抱き上げ、三歳の妹祐子といっしょに膝に乗せると、自分のオーバーを頭からすっぽり被せて言いました。

 「伶子も祐子も、もうじき天国に行くんだよ。……天国の野原は、きれいな花が咲いて鳥が歌っていて、とても美しい。怖いことや辛いことは何もないんだよ。」そして父はいつものようにブラームスの子守歌を歌ってくれました。あなたのまわりにはきれいな花が咲いている、だから朝が来るまで安らかに眠りなさい、という意味の歌でした。

 翌日、奇跡的に燃え残った教会と消防署を除き、辺り一帯が焼け野原になっていました。……前年まで父が牧師をしていた亀戸教会の会員、私を可愛がってくれた人たち、いっしょに遊んだ子、みんなその晩に焼け死にました。わずか二時間の空襲で一〇万人の市民が焼け死んだのです。

 怖かったでしょう、と聞かれると、「ぜんぜん怖くなかった、平気で寝ていた」と威張っていた私でしたが、星に殺される悪夢にうなされていることはだれにも言いませんでした。あの赤や黄のキラキラ光るものが星になって、光の槍を突きつけて殺しに来るのです。槍を首筋に突きつけられ、叫び声をあげて目が覚めることの繰り返しでした。

 戦争の苦しみは、それだけではありませんでした。大学生のとき、フランスで行われたキリスト教の国際学生会議で一人の韓国人学生に会いました。慣れない国際会議で戸惑う私に親切な彼を、私は遠いアジアの端から来た同士だからだろうと単純に考えていました。

 二週間の会議の最終日、彼は私の目をまっすぐに見ながら話してくれました。彼の家族や親戚は、日本の植民地とされた朝鮮半島で抵抗運動に加わったため、投獄されたり殺されたりしていたのです。フランスの会議に出席できることがわかったとき、嬉しさと同時に、そこで日本人に会ったら憎しみを抑えられるだろうかという不安に襲われました。その日から出発まで、キリスト者として憎しみを乗り越えたいと、会議で最初に会うひとりの日本人にだけでよいから親切にする力を与えてくださいと、毎日熱心に祈ったそうです。会議の間も試練の連続だったことでしょう。そして会議の最後の日に、彼は「あなたをゆるす」と言ったのです。

 戦争の恐ろしさは、自分たちが殺されるだけではないのです。自分の国が、目の前にいる親切な友の家族を殺したという苦しみをもたらすのです。

 ひとたび国が戦争を始めると、個人の力の及ばないところで、殺したり殺されたりという悲惨な関係に巻き込まれます。すでに、イラク戦争に自衛隊が参加し、今の私たちはイラクの子どもたちの命を奪う加害者になっているのではないでしょうか。いま、憲法を変えようという動きがあります。また日本が戦争をしそうな予感に脅えるのは私だけでしょうか。

 (キリスト者平和ネット代表)
(c)Reiko Suzuki