文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第16回 たとえ話の解説 (下)
関野祐二
聖契神学校校長
● ポイントの発見
たとえ話の解釈は、ポイントすなわち聴衆が反応したツボ発見にかかっていますが、やっかいなのは、それが必ずしも物語自体のポイントと同じでないこと。ルカ一五章の放蕩息子のたとえは、帰ってきた弟息子を父親が抱きしめる場面こそヤマ場でしょうが、たとえ話のポイントはむしろ正論を宣う兄息子の態度と父の対応にあります。真に失われた息子とは、父の近くにいるようで実は心が遠く離れた兄のほうなのですから。ルカ一○章の良きサマリヤ人のたとえはどうでしょうか。感動的な場面はもちろん、強盗に襲われ半死半生で倒れた旅人を助けたサマリヤ人の、無私なる行動でしょう。しかしポイントは、「サマリヤ人」という呼称そのものにあります。聞いていた律法の専門家がその名を聞いた瞬間眉をひそめ、最も隣人になりたくなかった相手こそサマリヤ人でした。律法学者なりの論理で倒れたけが人を助けることはできても、助けたサマリヤ人を隣人と認めることなど全く不可能。そこには長くて深い歴史的背景があります(ヨハネ四・九参照)。ですからこのたとえを、隣人愛に根ざしたボランティア精神の教材と単純に解釈したら、見事なポイントはずしですね。
● 聴衆の特定
こういうわけでたとえ話解釈には、それを主イエスの口から最初に聞いた聴衆の特定と、たとえ話がどのように聞かれたかの推測が必須。良きサマリヤ人のたとえでは、「ある律法の専門家」(ルカ一○・二五)がメインの聴衆で、彼は主イエスをためし、自らの正しさを主張するため、「私の隣人とは、だれのことですか」(二九節、傍点筆者)と定義を求めました。主は、道に倒れたユダヤ人の隣人として(隣人を考える基点の移動に注目)、まず祭司、次にレビ人を登場させます。この二人は律法学者を監督する立場の宗教的階級でしたから、彼はその不甲斐ない行動を見下し、三番目に通りかかって倒れた人を助けるヒーローこそ我が律法学者、とのシナリオを想定していたふしがあります。ところが登場したのは忌まわしきサマリヤ人、彼こそが倒れた旅人の隣人になったのでした。主イエスはここで、律法の専門家の巧妙な偽善を暴きます。彼の愛のなさとは、旅人を助ける助けない以前に、助けたサマリヤ人を嫌い、助けられなかった祭司やレビ人を見下したこと。「あなたも行って同じようにしなさい」(三七節)との行動要求は、サマリヤ人が倒れたユダヤ人の隣人になったごとく、あなたは嫌悪するサマリヤ人や見下す祭司階級の隣人になれ、という内容なのです。それができない自分に絶望したら、わたしのもとに来なさい、との招きでもありましょう。
● 神の国のたとえ
新約聖書、特に共観福音書の主要なテーマが「神の国」であることは前々号で扱いました。この事実はたとえ話において特に顕著。「天の御国(神の国)は~のようなものです」と切り出されるたとえ話は枚挙にいとまがありません。マタイ一三章では、毒麦、からし種、パン種、畑に隠された宝、真珠、地引き網の各たとえ話がいずれもこの書き出しですし、他の章でも、一万タラント借金があるしもべ、ぶどう園の労働者、王子の披露宴、十人の娘、タラントなどなど。たいせつなのは、これら各々のたとえ話全体が天の御国(神の国)の性質を教えるのであって、からし種や真珠など話題のポイントだけが神の国描写ではないこと。しかも御国のたとえは、たとえ話解釈の原則に従えば応答を求める呼びかけ/召しであり、教えが第一目的ではありません。それは主イエス来臨によって夜明けを迎えた御国宣言、今神の国がここにあるとの福音であり、主イエスの招きにどう応答するかが問われているのです。
● 時の切迫性
たとえ話はどれも「神の国」が大きなテーマで、福音への応答が求められる召しであるとわかれば、自ずと読み方も変わってきます。愚かな金持ちのたとえ(ルカ一二・一六―二○)は、突然襲ってくる死で所有財産が無に帰すむなしさを伝える一般的教訓ではなく、御国完成の切迫性こそポイント。御国がここにあり、終わりの日が間近なのに、相も変わらずこの世を蓄財と自己保身のため生きるのは、愚かで見当外れなのです。不正な管理人のたとえ(ルカ一六・一―八)は難解箇所の代表格ですが、時の切迫性を読者にチャレンジしていると解すれば、主人が彼の抜け目なさをほめた理由もわかってきます。懲戒解雇という差し迫った災難を乗り切るため、彼はともかくも迅速に行動しました。ましてや、終わりの日のさばきが迫っているのなら、たった今から備えるべきでしょう。たとえ話は応答と行動を求めるのです。