福祉を通して地域に福音を 最終回 不完全な愛だから
佐々木炎
早川敏子さんは八十歳代の女性で要支援2、いま娘さん家族と同居しています。七年前まで和歌山県の海岸で海の家と民宿を経営していましたが、夫が亡くなり、次女の住む川崎の地に越してきたのです。
敏子さんはホッとスペース中原で行っているデイサービスを、週二回利用しています。敏子さんは来所すると、民宿時代の腕をふるい、料理や家事などを積極的に手伝ってくれます。また、胃がんなど体の不調もありますが、いろいろな方々を気にかけ、励ましたり慰めたりしてくれる優しい人でした。
ところが、その敏子さんが三か月前から元気がなくなりました。話を聞くと、同居している娘さんとの仲がぎくしゃくしているということでした。もともとは仲が良かったのですが、娘夫婦の経営する工場が不景気で資金繰りが苦しくなり、敏子さんが資金援助してから関係がこじれ、眠れない日々を送るようになったのです。
「わたし、死のうと思っているの。睡眠薬を貯めてあるのよ。その薬を飲んで死んでやろうと思って」
ある日敏子さんは、そう私に告白をしました。その後も、話し合いを重ねましたが、打開策も見つからず、敏子さんは元気を失ったままでした。
この敏子さんが変わるきっかけになる人物が現れました。今年四月から毎週土曜日の休みを利用してデイサービスのボランティアに来ている大学三年生のH君です。彼は大学の神学科で私の授業を受け、教会での福祉活動に興味を持って、ホッとスペース中原に来ています。H君には介護の経験も資格もありませんが、誰かの役に立ちたい、神さまの愛を分かち合いたいと思い、始めたのです。
実際に介護のボランティアを始めてみると、プロのスタッフの働きに圧倒され、自分の無力さにいつも悩んでいました。そのうえ苛立っていたデイサービスの利用者さんから「お前、じゃまだ」と叱られる始末で、落ち込んだH君は、その翌週、休んでしまいました。
その次の週に出てきたH君は、やはり落ち込んでいました。その姿を見た敏子さんは、「よく来たわね。頑張りなさいよ」と言って、H君を後ろから、ギュッと抱きしめたのです。すっかり自信をなくしたH君の姿は、敏子さんに『落ち込んでいる若者を支えてあげたい』という気持ちを起こさせたのです。その日から、敏子さんは「自分は娘にも無視され、何の役にも立たない」という思いが薄れ、「H君を励まし、これからも支えてあげたい」と思うようになり、それが生きる力になった、と後日私に話してくれました。
一方のH君は、うまくいかない自分を受け止めてもらっていることに気がつきました。自分のような人間にも、必要とし、優しく抱きしめてくれる人がいる、と。そして、落ち込んでいた敏子さんの優しさを引き出すという貴重な存在になりました。確かにH君は、福祉活動を行うには技術的にも、知識的にも、まだ頼りないところがあります。それでも、敏子さんにとって、私や他のスタッフよりもH君の存在の方が、生きる力と希望へとつながったのです。
人は愛なしには生きられません。でも、私たちは不完全な愛しか持っていません。どんなに信仰生活を積んでも、歳を重ねても、どこかに利己心があり、罪があり、見返りを求める下心があり、神さまの愛を示すことはできません。
でも、未熟で不完全な愛であったとしても、その破れを通して隣人の「憂う心」に、神さまの無限で完全な愛が流れていくのではないでしょうか。私たちの愛が不完全であるからこそ、無条件で完全な神さまの愛を示す「道標」になるのです。不完全だからこそ、私たちは自分の愛にとどまることなく、神さまの愛を探求することになるのです。私たちは、もう自分の愛のなさを嘆く必要はないのです。
「神は愛です」(第一ヨハネ四章一六節)
神さまは私たちの愛の不完全さを用いて働かれます。私たちが憂いを抱えている人の傍らで《時間》と《空間》を共にするとき、神さまはその人の傍らにいてくださるのです。私たちの不完全な愛から神さまの愛へ、信仰へ導き出されていくのです。
いま私たちは「即戦力」を求める時代に生きています。しかし、最初から戦力を備えている人はいません。私たちの周りにも若いクリスチャンがいます。彼らの「未完成さ」「未熟さ」を受け入れ、大いに神さまの愛を示す機会となるように、失敗する自由を与えて欲しいと思います。私自身も、かつて不良で落ちこぼれでしたが、先輩牧師のWさんが「やってみなさい」と背中を押して下さり、今の働きがあるからです。たとえ失敗しても寛大に許し、若い人が委縮しないように、「力は、弱さのうちに完全に現れる」ことを共に学びたいと思うのです。