折々の言 8 同労者の死
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、同労者の死
五十七歳という年齢がそうさせるのか、昨年はずいぶん多くの同労者の訃報に接することが多かった。
そんな折り、ふと昔耳にした「人生五十年」という言葉を思い出し、自分ももうそんな年代になったのかと驚き、「明日はわが身」という思いを新たにする。たしかに三十代、四十代をふりかえってみると、その当時はいろいろなことがあったにせよ、人はいつまでも元気で、その健康やある種の幸せはいつまでも続くもののように思っていた筋がある。
先日、ある教団の婦人会が『女性の四季』(工藤信夫 著 聖文舎 一九八四年)をテキストに研修会を行うというので、とりあえず目を通してみて驚いた。まだ人生のことも、自分のこともまだ良く知らない年代と言えばそれまでであるが、三十代の私は「バラ色の人生」を想定していたことが明々白々のことだったから、我ながら驚く。しかし、四十代後半から五十代にさしかかると、体力も気力も「急激な衰え」を身をもって教えられ、次々と人生の破れや破綻に見舞われる。そしてつい先日まで「対岸の火事」のように思えた「人はいつか必ず死ぬ」という事実が、さしせまった現実のように思われてくる。死はこのようにして遠くから、忍び足で駆け寄ってくるのであろうか。
しかも亡くなられた方々が、みなそれぞれある時期、一つのヴィジョンなり、思想をもってお互いに交友をあたため、苦楽をともにした方々だけに同労者の死は、何か自分自身の歴史、時代が消え去っていくような気がしてさびしいのである。
二、一つの体験
しかしながら、「死の知覚」は、私たちにその「生の吟味」を迫り、自らの「本来性」を知らしめるという点で、どこか「人生のスパイス(塩味、辛味)」のような働きをもっているのではないだろうか。
二年前私は、五十五歳の誕生日を、大腸ポリープの内視鏡による摘出手術のため入院し、病院のベッドの上で過ごしたことを思い起こす。十年来、人間ドッグでこれといった異常が見つからなかったため、一年前の「潜血反応+」を軽く考えていたのである。「念のため」と思って調べた検査で四つのポリープが見つかり、しかもそのうちの一つが癌化していたことを知り驚いた。幸い発見が早く「何の心配もないでしょう」と言われたものの、内心穏やかならぬものを感じ、いよいよ明日、摘出手術を受けるという前夜、一人ベッドの上で次のようなことを考えた。
・子どもたちは、何歳になっただろうか。
・もしものことがあったら、家族の生活はどうなるのだろうか。
・私はこれまでいったい何をしてきたのだろうか。
・(もし)助かったら私は何をするだろうか。
今私は、そのときのことを思い直し、こうした軽い危機的状況に際しても、過去(何をしてきたのか)、現在(子どもたちや家族はどうなるのか)、未来(残された時間をどう生きるか)という三つのテーマが浮上し、それほど人間というものは、時間的連続性の上にその生が営まれており、またいざというとき、自分のことよりも残された家族や子どもたちのことが気がかりになったということに驚きを新たにした。
もちろん、私は結婚をしてからというもの、この「家族丸」や子どもたちが大好きだったから、彼らのことが第一の関心事として浮上しても何の不思議もないが、人がその最期に臨んで思い、願うことは、自分自身のことでは決してなく、「身近な人」の幸せであり、彼らの行く末であったということは意味深いことであった。
たとえ人は、どんなに「自己中心」で「厄介な存在」であったとしても、心の片すみに「人のことを想い、懸念する」気持ちが生きているということは、一種の救いではないだろうか。
三、イエスの最期
聖書の中に美しい一節がある。主イエスがいよいよこの地上の生命を終えようとしたときの記事である。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちをこの上なく愛しぬかれた」(ヨハネ一三章)。また一七章には「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい」という記述がある(一一節 口語訳 )。
世にいる弟子たちを愛し通される。残される彼らのために切に祈る(とりなす)。こう考えてみると人生の最期のときを、自分に与えられた少数の人たちとの交わりを深め、そのときを大切にするというのは、私たちにも開かれている恵みの一つなのかもしれない。
ともあれこのような事柄が多少なりとも影響しているのであろうか、最近の私はこれまでの不特定多数の人々を対象とした一回きりの講演や集会ではなくて、前回述べたように、私の話を本当に必要とする少人数のこじんまりとした、肩のこらない集まりに親和性を抱き始めている。
「仕える」という言葉があるが、 烽オかしたらこれが、死を前にしたイエスの御言葉のように、私たちに与えられた生命の本来性の一つのようにも思われる。