現代社会のサバイバー 第2回 寂しさの克服
安藤理恵子
キリスト者学生会関東地区 主事
ひとりでいるのは寂しい? 猛烈に働いた一日を終えて家に帰ったとき、もしそこに家族がいたり、子どもの歓迎があったりしたら、使い果たしたエネルギーが充填されるようにいやされることもあるのでしょう。でもひとり暮らしで、着いたところが寒く暗くいつも通りの雑多な部屋にすぎなかったなら、もの寂しさに何か音を聞きたくなって、テレビや音楽のスイッチをとりあえず入れてしまいます。すでに帰り道の段階で、同僚や仲間から離れて歩く道すがら、うつろな孤独を先延ばしにしようとして明るいコンビニに入ってしまうこともあります。最近立ち呑みの店があちこちに増えているのも、同じ理由かもしれません。みんな家に帰ってひとりになる時間を怖がっているのです。
「寂しい」という現実について、私たちは他人から憐れまれて改めてみじめになるのがいやなので、あまり公にしません。しかし創造者に背を向けて以来、私たちは皆常に寂しい存在なのです。わかってくれる人にめぐり会えたら、誰かと結婚してずっと一緒にいられたら、孤独から解放されるのではないかと多くの人が待ち望みますが、心の奥の孤独は他人がどんなに密着しても埋められることはありません。ありえないすばらしい人を想定して尋常ではない配慮と愛情表現をしてくれたと妄想しても、冷静に考えると、それによって今疼いている不全感が満足させられるかと言えば、一瞬以上のものにはならないことに気づくのではないでしょうか。
孤独の中で主と出会う 孤独なキリスト者は(特にそれに気づく機会の多い独身者は)、神に疲れと孤独をいやしていただけることを本気で信じなければなりません。身体が疲れていたら睡眠をとるべきだし、集中力が落ちているなら栄養が取れているかどうかを考えることが必要です。しかし寝ても食べてもいやせない疲弊が人間にはあります。すでにキリストを信じている私たちが、神と共にある自分の立場を見失うと、神の働きを神の力を求めずに続けることになってしまうので特に消耗度が激しくなります。ですからキリスト者が疲れる時、最初にやめたくなるのは職場の仕事ではなく教会の奉仕だったりするのです。そんなときの私たちには、神の前に出ること、聖書を開くことは、今日の残業よりはるかに重労働に感じられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書十一章二十八節) あなたは悔い改めるのが面倒だから、聖書を開くことから逃げているのでしょうか。人間の力だけで構築しているかのような世界に慣れてしまったから、神は自分の人生や世界のためにこれ以上のことはできないのだと見限っているのでしょうか。自分の気分やこの世の嘘にだまされてはいけません。あなたを招いておられるのは、あなたへの愛をご自分の死によって証明されたイエス・キリストです。この方があなたを助けるために祝福を出し惜しみするなんてことが今さらあるでしょうか。人間を創造されたこの方こそ、私たちの内面の隅々を望みと喜びで不思議に満たすことのできる方です。この方の声を聖書を通して心から聞くとき、孤独の中だからこそわかる、主との深い出会いを経験します。この方がいさえすればそれで十分だと、今を感謝できます。そして私たちは、寂しさは神を求めるための原動力であり、誰が本物であるかを判別させる導き手であることを悟るのです。
一日の終わりに弛緩し油断しているあなたの頭に、流し込まれているのは誰の声でしょうか。神の細い声を聞き取りたいなら、ひとりになるために音を消しましょう。