誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第10回 こころのケアの担い手となる
井上貴詞
東京基督教大学助教
千年に一度と言われる巨大地震に見舞われた東日本大震災。地震、津波、放射能汚染のトリプルパンチは、想像を絶する大きな被害をもたらしました。全国の教会関係者でネットワークが立ち上がり、被災地の救援活動が行われています。筆者も祈りつつ、被災地に足を運びました。
あまりにも広範囲な破壊のため、インフラ整備や経済復興には膨大な労力と費用がかさみますが、同時にメディアからの映像では描ききれない被災者のこころの苦しみ、痛み、怒り、悲しみ、落胆、喪失感のいやしにはさらに長期的な息の長い支援を必要とすることでしょう。かかる状況の中でも、被災地を訪れて大きな励ましと感銘を受けたのは、避難できずに地域に取り残された介護施設や高齢者に対して、物資だけでなくこころのケアにも取り組もうとするクリスチャンたちの姿でした。
震災の苦難の中にある多くの方々はもちろんのこと、人生の晩年にこころの危機を迎えている人々のケアは急務です。専門家だけでなく、地域社会の隣人として私たち一人ひとりがその担い手となることが期待されています。
共感できないこころ
ひとり暮らしのKさん(男性、七十六歳)は、ホームヘルパーの支援を受けていました。Kさんは、若いころに闇の世界で生きてきた経歴があり、家の奥には木刀が立てかけてありました。ちょっと気に入らないことがあると、怒って木刀を振り回そうとします。病気のためにからだが思うように動けないので「振り回すふりをする」という感じですが、その場にいるヘルパーには大変な恐怖です。
また、財布を人に全部預けて管理させようともします。ところが、預かってしまうと、その相手の財布も自分の財布の延長のように使おうとするので、たとえ買い物を依頼されても、ヘルパーは細心の注意を払って必要な金額だけを預かって買い物をしていました。
Kさんは、幼いときに何らかの事情で実の親から親類の家に預けられました。十分な愛情や共感を受けずに育ったようです。親から共感された経験がないと、大人になっても人に共感できず、自分と他人の心の境界線もあいまいになります。さらに、心の奥深くに「見捨てられ感」があったり、いらだちや喪失感が強いと、こころが否定的な感情でいっぱいになります。そうすると、温かなケアも感謝をもって受け止められず、屈辱や被害感、妬みすら感じて攻撃的になります。また、思考が短絡化して思い込みが激しくなったり(被害感が被害妄想になる)、視野が狭くなってますます傷つきやすくなっていきます。そんなときには、ケアをする人も怒りの感情や被害感情がわき出てくるので、ケアをする人が自らをコントロールできなくなってしまうと、両者の関係は悪循環に陥ります。
聞き出そうとしない
科学的論理的な思考をすることを学校や会社で身につけている人は、理解しがたい行動をする人に出会うと、ものごとを因果関係で考え、事実を集め、原因がどこにあるのかを分析しようとします。
援助の専門家であれば、根拠のある支援をするために、事実の収集や分析は必要です。しかし、だれもかれもがそのような評価的な態度で、痛みや喪失感を抱える人に接することは、結果的に支援的なかかわりになりません。ましてや、興味本位で事実を聞き出そうとしたりすれば、相手のこころの傷口を広げてしまうことになります。
高齢者は、長い人生でその人にしかない物語をもっています。聞いて欲しい憂いや悩みをため込んでいます。しかし、その話は、話題があちこちに飛んだり、具体性がなかったり、つじつまが合わないこともしばしばです。本音を話したいときほど、話の前置きが長いものです。
大切なことは、論理的な態度で客観的な事実を聞き出そうとしたりしないで、そうした話を「うん、うん」と相づちを打ちながら、共感の態度で、忍耐強く傾聴することです。気持ちを聞いて受け止めることです。話が長くなって、話し手も何を話しているのかわからなくなるときは、ポイントだと思ったことばを要約して繰り返したり、相手の言葉にならない感情を言葉にして返してあげればよいのです。
一見問題ある行動をする人であったとしても、共感されたと感じてもらえれば、不安が減少して、自分を客観視できるようになり、問題解決の糸口が見えたり、痛んだ心がいやされていきます。主から御霊の力と神の愛による忍耐をいただいて、こころのケアの担い手とさせていただきたいと願います。
「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」(箴言一八章一四節)
※事例はプライバシーの保護のため、事実や趣旨を歪曲しない程度に一部フィクション・再構成となっています。