「絆」を求めて
――なぜホームレス支援なのか ◆interview キリストの十字架を背負って生きる
奥田師が本誌で連載していた「わが父の家には住処おほし」が、証しや信仰コラムなどを大幅加筆し『もう、ひとりにさせない ――わが父の家にはすみか多し』と題して五月に出版された。
―― 出版された今のお気持ちは。
これは二十数年間、路上で出会ってきた人たちや教会の人たち、そこでの対話を紡いだもので、決して私ひとりで書いたものではありません。出会った人たちとの記録として読んでもらえたらと思います。食べ物や住むところも、とても大切です。そのうえで、あなたはひとりじゃないんだ、「もう、ひとりにさせない」というメッセージを伝えることは、支援にしても宣教にしてもいちばんのテーマだと思います。マタイの福音書にもありますが、インマヌエル――ともにいてくださるというのが、救い主の姿ですから。
―― 「わが父の家にはすみか多し」は連載タイトルでもあり、今回のサブタイトルにもなっていますね。
これは、亡くなった人たちのお葬式で語ってきたことばなんですよ。家もなく、路上の片隅で亡くなっていく人たちをずっと看取ってきたわけですが、彼らは無縁仏と言われます。つながりを失った、無縁死ですよね。けれど聖書には、「父の家にはすみかが多い」「なければ家を備えておく」とあります。この世には家がなかった。でも、家を備えておくよという約束をしてくれている。単なる建物としての住まいがあるというわけじゃなくて、自分のために準備してくれて、心配してくれて、自分のために傷ついてくださる存在があるということなんですよね。だれかに裏切られたり、傷つくのが怖いって、それは正直なことなんだけど……。だから出会わないようにして、「それはあなた自身の問題だよ」と言い切ってしまう。それが今の「自己責任」の社会です。でも、多少傷ついても人と出会っていかないとだめなんですよね。
―― 朝日新聞(三月三十日、朝刊)でも、今回の震災支援に関する寄稿で、「絆には傷が含まれている」と書かれていましたね。
十字架の愛は、イエスがぼくのために傷ついてくれたということです。そして、「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」とあります。「自分の十字架」とは、自分の罪や反省すべきところと思われていると思いますが、あのときイエスが負っていた十字架は、赤の他人の十字架でした。イエスが他者の十字架を負ったように、ぼくが負うべき十字架も、他人の十字架だと思うのです。他人の十字架を負って、お前もついてこい、と。
だからぼくは、だれかのために傷つくことをしなければならないと思えるのかもしれません。現代の教会は、自分のことを考えているのではと思うことがあります。教会に行くのも自分の平安や幸せのため、反省するのも自分が赦されるため……。
教会に行ったら安心できる、落ち着くというのは悪いことではないです。でも、イエス・キリストに従うというのは、教会に行って「誰かのために重荷を負う」ことじゃないでしょうか。誰かのために自らが傷つくことじゃないでしょうか。
―― 震災支援でも、教会はキリスト教界を支援するだけでなく、地域全体を支援していきたいですね。
教会が教会を支援するというのは当然です。とても大事なことです。
ですが、私たちの原点はイエス様です。災害というのは平等に起こると言いますが、そうではありません。お金がない人は逃げることもできません。本でも書きましたが、当時のユダヤ社会は、神に選ばれた人と選ばれなかった人とを分けていました。でもイエスは、そこにいた人〝みんな”と一緒に食事をしたんです。日ごろからクリスチャンとしか付き合いのない教会は動かないと思います。聖書をどう読んでいるか、日常の教会の姿勢が災害時には出るでしょうね。
私は震災から二週間後に宮城県の被災地へ行きましたが、日常的にホームレス支援をやってきたので、教会も送り出してくれました。
ホームレス支援については、教会内でも「牧師の仕事なのか」「そこまでやるべきなのか」という議論が二十数年続いています。それでも送り出してくれる。日ごろから、だれのことを祈っているのかということです。
何もしていなければ、いざというときに動けない教会になってしまう。もちろん、いざというときにがんばるということもあります。人間は、正直なところ、目の前に問題が起きないとがんばれないところがある。今みんな必死になって考えようとしているし、動こうとしているのはいいことだし、それがきっかけとなって今後変わるというのはあると思います。