踊りをもって御名を賛美せよ 第3回 賛美フラとの出会い
中野めいこ
1944年東京三鷹生まれ。東京聖書学院、CEF伝道学院にて学ぶ。1965年、中野雄一郎牧師と結婚。3女1男、孫7人。日本とハワイの教会で奉仕後、1996年夫と共に巡回伝道者として再出発。現在、賛美フラミニストリー代表として賛美の祝福を伝えるために尽力。
デビさんの踊りは、それは感動的でした。立ったままで手話を使っての静かな動きでしたが、ひきつけられ、心打たれ、涙が溢れてくるのです。メッセージが伝わってくるのです。はじめて見たとき、これなら私にもできるかもしれない、やってみたいという思いになりました。
賛美は大好き、音楽大好き、それなのに歌は下手、楽器もできない。フルートは出っ歯は向いていないと言われて断念。ピアノはすぐ疲れてしまって弾けない。歌は先生から「のどをやわらかく、おなかから声を出して」など言われても上手くできず、挙句の果てに「私はふざけに来ているんではございませんのよ!」とお叱りを受け、自信をなくしました。
そんな私にとって、クリスチャンの最高のささげものである賛美をどうやってささげればいいのか、というのが長い間の課題でした。
踊りなど、まったく私の頭には考えつきませんでした。なぜなら踊りは、私の大嫌いなものだったのです。学生時代に踊りの時間になると、胃けいれんになるくらいでしたから。
けれど、デビさんのゴスペルフラを見て感動した私は、教会に取り入れたいと、すぐに彼女をお招きしました。ハワイにある日本語の教会では、はじめてのことだったと思います。試しにレッスンに参加しましたが、案の定、いくらやっても上手になりそうもありませんでした。息子からは笑われて、何度やめようと思ったかわかりません。
それでも、デビさんの優しい言葉に励まされて続けていました。「習っても家に帰ると忘れてしまうのよ」というのが皆さんのセリフでしたが、私は後ろを向いたとたんにすっかり忘れてしまうのですから情けないものでした。
今の私は、年寄りのわりに覚えが早いと言われるようになったのですから不思議です。たくさんの生徒さんがいるなんて、どう考えても神様のなさることは不思議です。
皆さん賜物を誤解しているのではないでしょうか。
やりたくない、嫌いな、苦手な、欠点と思うようなことが賜物となって、神様の御用に役立つことがあるのですね。楽器は弾き手が良ければ音色が違うと言われますが、私たちは、神様の道具です。使ってくださる神様が素晴らしいから、素晴らしい仕事ができるのです。
私がまだ、フラをはじめて間もないころのことです。もちろん踊りが上手ではないということです。
夫と私はある教会にゲストとして招かれました。教会に到着すると、牧師先生はうれしそうにこうおっしゃいました。「今日は、ご近所のフラの先生と生徒さんをお招きしました」
私は気が遠くなるほどびっくりしました。普通のフラとは違う、それもまだ下手なのに、フラの先生の前で踊るなんて絶対できない。控え室で本当に涙が溢れてきました。神様いやです。私は恥をさらすようなことはしたくありません。どうかこのまま逃げて帰ることを許してください。ところが神様は、「踊りなさい。わたしがついているから」とお語りになりました。
「神様、助けてください」と祈り、本当に死んだつもりで舞台に立ちました。ただひたすら、神様を仰いで。続いて説教があり、集会が終わりました。
私は真っ先に、フラの先生という方のところに行きました。踊りの言い訳をするためにでした。やはりまだ、自分に死んでいないのですね。
「どうも、つたない踊りで失礼いたしました」と、私が言いますと、彼女はなんと「はい……」と言ったのです。「はい」です。変なフラだったということでしょう。「はい、でも……」その後の言葉に私は驚きました。
「でも、あなたが踊っているのを見て、私は、あなたの持っているものをほしいと思いました」
そして、彼女はその日にイエス様を自分の救い主として心に受け入れました。踊りではない、私でもない、神様が私を通して現れてくださったのです。私には忘れられない経験になりました。
そして、それはまた、同じ踊る仲間にとっても大きな励ましになっています。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」(詩篇103篇1節)