キリスト教良書を読む  第6回 No.6『若い牧師・リーダーのための14章』

工藤信夫
医学博士

◆もし……という発想
多くの失策と後悔に見舞われる人生の現実にあって“もし、もう一度やり直すことができれば……”という発想は斬新であり、魅力的なものである。
死を目前にした人、結婚生活に破綻をきたした人、子育てで失敗したと考える人などは“もし、もう一度やり直すことができれば……”と考えるかもしれない。よしんばそれが、同様の失敗をくり返すことになってもである。

◆この本の価値
原題が『If I were starting my ministry again(もし、もう一度牧師・牧会をやり直すことができれば)』であることを考えると、この本は牧師・教職にかぎらず、キリスト者に、振り返りと反省の発想を与えるものであることが容易に想定される。
というのも、私たちキリスト者は信仰生活において多くの失敗をくり返しているのが常であるばかりか、そもそも信仰なるものは、多くの手間ひまをかけなければ、その成長・成熟はおぼつかない類のものだからである。キリスト者に望まれるのは、日毎に新しい神の発見であろう。

◆いくつかの要点
この本には、その要点が十四項目にわたって記されているが、私が日本の牧会者にも、キリスト者にも有用・有効と思った点は以下の事柄である。

a「自分自身の霊性を豊かにするためにもっと訓練を受けたい」(第一章より)
言うまでもないことであるが、弟子はその指導者のレベルを越えることはできない。ということは、教会の質、会員のレベルは、指導者の霊性に大きく左右される。それゆえ、教会の指導者は自分自身の学び、霊性の高まりにもっと時間とお金をかけねばならない。ところが多くの場合、この初歩的・根本的な問題がはなはだ実践困難である。
というのも、小さな日本の教会は牧師・教職の生活そのものが苦しく、生活のために“多忙”にならざるを得ないであろうし、一方、さまざまな会議や委員会、地域の役員会への出席に取り囲まれてしまった牧会者は、聖書の学びに専心することが困難になり、こうした多忙・多動が“逃避の手段”になりかねない(三二頁)。英国のある牧師がその招聘に対し、教会に答えた一言は意味深いものである。「みなさんが私に望んでおられるのは、私の足でしょうか。それとも私の頭でしょうか」(三一頁)

b「冬ごもり」という発想
そこで二章には、“冬ごもり”というおもしろいことばが登場する。今日のように交通手段が発達せず、その移動が天候に大きく左右された時代、牧師は冬の期間、あるテーマに関する書物を抱き込んだり、注解書だけを持参したりして、“冬ごもり”したという。
雪国育ちの私はこの一節が、よく納得できる。受験勉強でも一~二冊の定番と思われる本をくり返し学ぶことが、力を蓄えさせたと思われるからである。また、私の知っている何人かの牧会者の中には、昔、結核を患ったという方が少なくない。これもまた、不治の病とされたこの病の中で一種の“冬ごもり”を経験されたのかもしれない。

c「神が働いているなどとはとても思えない人や場所、計画の中に実に神は働いておられるということをいつも心に覚えたい」(十章より)
この本を訳して、私が一番深く教えられたことは、“意外性に富む神”という概念である。確かに、私たちの神は旧約聖書の中に「不思議」という名を持っておられることが記されている。ところが、私たちは神を一つの箱に閉じ込めてしまう傾向がある。狭く固定的に捉えたほうが安心だからである。
だが本書は、神は永遠に新しい方なので、ご自身を決して同じ形で現わされないと言うのである(八四頁)。
そして、神のことはすべてわかったと思うと、神はほかのどこかで働かれ、私たちが思ってもみなかった方法でみわざをされるというのである。
世にパターン化という現象があるが、残念ながらキリスト者の中には神を聖書や会堂に閉じ込め、外に求めない姿勢があるのではないだろうか。それゆえ神はご自身をいつも新しさの中に現されるということがわかれば、私たちの信仰生活はもっと多様性・意外性にみち、冒険的になっていくのではないだろうか。私たちはマザー・テレサが、コルカタの路上生活者の中にイエスを見出したことを忘れてはならないと思うし、“驚き”や“不思議”“広がり”と“深さ”の伴わない平坦化した信仰生活は、点検の必要があるのではないだろうか。