フィリップ・ヤンシー氏、来訪して被災地へ ◆今、本書が投げかける問い
千葉仁胤
気仙沼聖書バプテスト教会牧師
十六年前、初めて本書が邦訳出版されたとき、その大胆な題名にある戸惑いを覚えつつ読んだ。言ってはならないことのように思え、それは、ある種の後ろめたさのようなものであった。だから、秘密の箱をあけるような思いでページを開いたものである。
本書は「闇の中の神」と「闇の中で見る」の二部構成となっており、大部分を占める「闇の中の神」は、「沈黙を経験する」「接触―御父」「接近―御子」「委託―聖霊」として、三位一体の神がバランスよく並べられている。
冒頭の「沈黙を経験する」は、本書が投げかけるテーマである。
とある若き神学生は、ヨブ記についての優れた論文を書く。しかし出版を前にして、信仰を捨て去ってしまう。彼の心の中にある怒りや悲しみ、それは神に対するものであり、同時に人に対するものでもあった。彼との対話を通して、ヤンシー氏は「人の心を考え、神の心を問う」という作業に取り組む。これもまた、なんと大胆なことか。
神は本当に人のために在るのかという問いは、書中の神学生だけではなく、歴史を通して、人間が絶えず投げかけている問いであろう。そして、その問いと求道が真剣であればあるほど、人は神への疑問と、時には怒りへ向かうのかもしれない。本書は、現代のアメリカにおける教会の信仰のスタイルに鋭い自己反省を促しながら、その人々とともに歩むことを示している。
このたびは、旧版の改訳であり、まず文字が大きくなり読みやすい。文体も、より今日的な表現になるよう努めているように思う。もっとも、氏の文章はジャーナリストらしく、同時に文学的表現が多く、邦訳には相当の苦労があったように思う。
「神は沈黙の神なのか」との問いは、震災のただ中にあるこの国の人々に、切実な言葉として響くだろう。キリスト教の神に近づこうとする人には、苦闘しながらも良い対話の書となることは間違いないと信じる。被災地に住み、被災者の心の叫びを聞く私には、実に示唆の多い言葉が続いている。