時代を見る目 213 3・11――あの日の記憶、そして今 [6]主は取られ、主は与えられる

柏村正道
愛隣オフセット印刷社

12年前、結婚を機に宮城県気仙沼へ来て、クリスチャンである妻の両親が経営する「愛隣オフセット印刷社」の一員となった私にとって、2011年の3月は一つの転機となるはずでした。仕事が集中している中、義父母が約2週間の長期間にわたり海外へ出かけるという初めての状況にあったからです。東日本大震災、とてつもない大津波に遭遇したのはその最中でした。
幸い小3の娘の通う小学校に避難して、家族は全員無事だったのですが、自宅兼会社は一階がすっかり浸水して機械等は全く使えなくなってしまいました。仕事の再開はおろか、いつになったらここに住めるのかさえ分からない状況です。片付けのため、避難所の体育館から家に通う日々の中で、私は嘔吐を伴う発熱で、倒れてしまいました。2度目に倒れて、隔離されたときは生まれて初めてのことにショックを受けました。でも、義父母と妻の無念さはそんなものではありません。私が参加するはるか以前から持っていた印刷を通して主の栄光を表し、信仰と仕事を両輪としていきたいという願いが突然に崩れてしまったのですから。
しかし、主はその思いを覚えていてくださいました。知己であるなしを問わず、教会関係の皆さんから多大な支援をいただき、無数のボランティアの方々が家と会社の片付け、修復をしてくださったのです。浸水したパソコンのハードディスクに会社の貴重な財産であるデータが残されていたという奇蹟的なこともありました。主の憐れみ、そして無償の善意と愛の行為のおかげで、私たちはなんと震災からわずか2か月足らずで家に戻り、さらに半月後には会社を再開することができました。
時々、「自分は何もしていないし、気仙沼生まれの人間でもないのに、 この愛隣オフセット印刷社に属しているというだけで、家族やほかの被災者の方々に比べてあまりに分不相応な助けを受けているのではないか」 と思います。「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただ」く (マタイ15:27)とはこういうことではないか、という気がします。しかも自分からあのカナン人の女のように必死に食い下がったわけでもないのに……。
正直、あまりに多くの方々から一生かかっても返せない御恩をいただいたことで、プレッシャーを感じるときもあります。でも、きっとそこには主の深い意味があるのでしょう。あえてとるに足りないものを選んでくださった主に助けていただきながら、この事業に励んでいこうと思っています。