これから、戦争なんて起きないよね? 自民党〝憲法改正草案” 何が論点?

星出卓也
日本長老教会 西武柳沢キリスト教会牧師

昨年十二月の衆議院選挙で自民党が単独過半数の議席を獲得、公明党の議席を加えると三分の二を超えました。これは憲法改正を発議できる議席を、現政権が衆議院で確保したことを意味します。七月の参議院選でも同様の結果となれば、憲法改正は加速度的に進むでしょう。その前に私たちは自民党の憲法改正草案の何が問題で、何が論点なのかを理解しなければなりません。

Q問われているのは〝憲法改正手続きの変更”だけ?

今、提示されている第九十六条の改正案は、国会での改正発議を、両院の三分の二以上の議員の賛成から二分の一に変更し、憲法改正のハードルを下げようというものです。つまりその後、実現しようとしている改正案が究極の目的です。自民党は、「憲法改正草案(※)」をホームページで公表し、目指すべきゴールを提示しています。よって憲法改正草案全体を見る必要があります。

Qでは、提示されている自民党憲法改正草案はどのようなもの?

第一に見なければならない点は、国の在り方が根本的に変わるということです。一言でいえば「個人のための国家」から「国家のための個人」となること。そして「国民一人一人の人権を守るために国が存在する」から「国家体制を守るために国民が存在する」と変わること。人権よりも国家・全体を優先するという国になるということです。

Qそれは改正草案のどこに現れていますか?

たとえば第一二条、この憲法が国民に保障する自由及び権利について、現憲法は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としているのに対し、改正案は「常に公益及び公の秩序に反してはならない」となっています。「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」は似ていますが、意味は全く違います。現憲法の「公共の福祉」とは、他人の人権を守るということです。〝自分の自由・権利によって他人の自由・権利を侵害してはならない〟ということです。これは、個人の人権を何よりも重要なものとしているからです。
対して「公益及び公の秩序に反してはならない」とは、公益が個人の権利に優先する、つまり〝公の秩序に反しないと国が定めた範囲内でしか、個人の人権は認めない”という意味です。
現に戦前の日本は、そのような国家でした。「安寧秩序を妨げず、及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」と明治憲法の至るところに記され、「安寧秩序」「臣民たるの義務」については、「治安維持法」「宗教団体法」などの下位法で具体的に定められました。秩序とは、「天皇を神とする国家体制」。その秩序にかなわない人権は認めない、というのです。逮捕の手続きや言論の自由、信教の自由なども、天皇制国家体制にそぐわなければ認めてもらえず、人権はことごとく制限されたのです。
今回の憲法改正草案の至るところに記された「公益及び公の秩序に反してはならない」ということばは、それと同じ道を開くものです。実はこれは、国家権力の前に人権が保障されるか否かというほどの問題なのです。

Q改憲されると、クリスチャンや教会はどうなる?

信教の自由を認め、それを保障するために国家の宗教活動を禁止する政教分離原則の第二十条では、改正草案は「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」と加えています。これは国民一般に習俗として定着していると見なされたら、それは宗教行為ではなく儀礼だから参加するように、という意味です。習俗として認知されたら、神社参拝に国や地方自治体、公共団体は関与できるし、国民も拒めないのです。そして、習俗化されているかの判断基準は、国民一般が認めるか、という多数決の論理です。しかし思想信条、信教の自由ほど多数決の論理になじまないものはありません。キリスト教信仰は日本では少数派です。けれど少数派の思想良心の自由を守ることこそが基本的人権の根幹ではないでしょうか。少数の信教の自由は、現憲法下でも多数決の論理に脅かされています。君が代起立強制が条例で規定され、信仰+ゆえに従わない教員たちは処罰の対象となっています。まして明文改憲されたら、君が代強制は国民全体、子どもたちにも及ぶでしょう。神社参拝が儀礼とされたら、クリスチャンもそれに従わなければならなくなります。

Qでは教会はどうすればいいの?

「主権在民」の理念に立ち、国民自らが少数の人権を守る国を創る努力を怠ってはなりません。憲法によって、政府と権力の暴走を常に見張ることは私たちの大切な役割です。少数派の人権を守らないような憲法に〝改正〟させないのはもちろんのこと、現憲法下にあっても、少数派の人権が顧みられない事例が数多くある現実にも目を注がなければなりません。人権を侵害されがちな少数者の視点に立ち、ともに痛むことが重要です。国家よりも優先すべき人権が一人ひとりにあるという根拠は、人間が「神のかたち」に創造されたということです。その尊厳性を聖書から知らされている教会こそ、隣人を愛することを通して、神を愛する道を全身全霊で証しする存在なのです。

※自民党ホームページ(https://www.jimin.jp/)l>「自民党の活動」>コラム>2012年4月「憲法改正草案」を発表