時代を見る目 228 改憲論と日本の行く末 [3]
鈴木伶子
平和を実現するキリスト者ネット事務局代表
日本では、様々なものを神として拝みます。そこで明治政府は、国民を一つにまとめて先進諸国に追いつくために、天皇を神とする“神道”を作りました。この宗教は、アジア・太平洋戦争遂行の強力な支柱となり、国民は神社参拝を強制されました。
当時のキリスト者は、「天皇と聖書の神とどちらが上か」と、たびたび詰問されました。一握りのキリスト者は、神ならぬものを神とすることを命がけで拒否しましたが、多くのキリスト者は苦悩の中で妥協しました。そのとき出てきた理屈が、神社参拝は習俗だ、神社には神はおられないのだから頭を下げても構わない、というものでした。神を捨てろと言われたら命がけで抵抗するつもりだったそうですが、天皇を限りなく神に近いところに置きながら、それを習俗とか儀礼ということばで包み、自分の心もごまかしたのです。
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敗戦後、政治に神を結びつけて戦争遂行に利用したことの反省から、日本国憲法は第20条に「政教分離の原則」を掲げ、国はいかなる宗教的活動もしてはならない、と定めました。
しかし今回、自民党の改憲案はその規定に「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」と付け加えました。この改憲案が通れば、国のために死んだ人に感謝の念を表すことは社会的儀礼であるという理屈で、首相などの靖国公式参拝も可能になります。
天皇を神とし、参拝を強要するという事態が今すぐ起こることはないでしょう。しかし今の日本社会は、豊かな国、強い国への期待が大きく、日本の過ちを認めないという、ゆがんだ愛国心が強まっています。そんな中、自民党の改憲案は第1章に天皇を「元首」とし、国旗・国歌を尊重することを記しています。これは、「いつか来た道」に通じるのではないでしょうか。
今必要なことは、見分ける目を持つことです。さもないと、神を礼拝しながら、神ではないものを賛美し、神の御心に反する生き方に陥る恐れがあります。見分けるポイントはただ一点、十字架による救いをもたらす神か、力や繁栄をもたらす神かということです。
強さにひかれるイスラエルの人々に神は告げられました。「力を捨てよ、知れ わたしは神」(詩篇46:11/新共同訳)
経済力、権力、軍事力など、他を圧倒する大きな力に惑わされることなく、ご自分を十字架に至るまで低くされた神にひたすら目を留め、神にのみ、頭を下げる者でありたいと思います。