福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第1回 傷つき倒れる側からの視点
木原活信
同志社大学社会学部教授
キリスト教関係者には社会福祉にもっと関心を、福祉の専門家には福音にもっと興味をもってもらいたい、と願っている。クリスチャンが福祉とかかわることは、否が応でも「隣人を愛する」ことに直結せざるを得ず、それは痛み苦しむ人々と向き合い、それを通じて霊的成長、教会の健全な成長へとつながる。現代人の最大の敵である自己中心や過剰な自己意識からの解放、狭い教条主義や教派主義の囚われからの解放へとつながり、「イエスの弟子」となる一助になると確信する。
そんな祈りと期待を込めて、社会福祉学を専門とする一キリスト者の立場から「福祉と福音」について断章的に考えてみたい。
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先日、社会福祉学の大学院ゼミナールで、良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ10・30~37)の登場人物の中で、自分を誰と同一視するのかを討論した。「私は、福祉を専門にしているから、サマリヤ人のように困った人に寄り添いたい」「僕は福祉専門家とか言われながら、結局都合悪くなると逃げるから祭司がピッタリ(笑)。いやな人間……」「私は宿屋の主人……それって福祉施設みたい」などと興味深い意見が出た。
そんな中、ある女子学生が、「……私は『強盗に襲われたある人』かな。今日駅で立ちくらみで気分悪くてしゃがみこんでいたら、同じ学生風の人がこっち見て……目が合っても知らんふりして通りすぎて行った。祭司みたい。そしたら、普段親しくなれそうにないおじさんが近づいてきて『大丈夫か?』って優しく声をかけてくれた。その声に助けられた」と語ってくれた。
当然ながら、この討論に模範解答はないが、問われるのは、援助者、被援助者、あるいは傍観者のどの立ち位置に自分がいるのかということである。
福祉専門家やクリスチャンは、自分を援助者であるサマリヤ人の位置に置きやすい。ところがこのたとえ話の妙味は、助け手となることができたのは、当時ユダヤ人が忌嫌っているサマリヤ人であるという点である。
つまりは、嫌われ者で援助者にほど程遠いと思われたサマリヤ人だけが、逆説的であるが、苦しむ者に寄り添うというストーリーである。サマリヤ人の行動は、上から目線の援助ではなく、何の損得勘定もない。ただ「かわいそうに思って」(断腸の思いで共感、共苦して)近寄ってきたのである。祭司やレビ人とは対照的である。
自分を祭司やレビ人と同一視した社会人学生は、それは自らの福祉専門職の経験の自己反省に起因すると述べていた。専門家であればあるほどその傾向になると付け加えていたが、重い指摘である。
自分を「ある人」に同一視した女子学生にとって、「おじさん」がサマリヤ人に思えたというのは、弱さと苦しみの当事者としての視点からであった。同胞であるはずの学生には見捨てられ、期待していなかった「おじさん」が手を差し伸べたという体験は、実はこのたとえの真意を掴んだ理解である。
「隣人とは誰か」をイエスに問う律法学者は、自分を中心とした援助する側の枠組みでしか考えることができない。しかしそれは、冷徹な傍観者と化してしまう。現代の教会やクリスチャンも、何かこれと共通する点はないだろうか。その立場からは、援助される人、痛み苦しむ人のことなど想像できない。自らを援助者と自負する者に、援助される側の真の苦しみを理解することはできない。
逆に、傷つき倒れた「ある人」こそ自分の姿であるという自覚からは、「隣人とは誰か」というような傍観者的な問いは出てくる余地はない。「結局、誰が自分の隣人になってくれるのか、誰が助けてくれるのか」という切羽詰まった問いがあるだけである。きっと「ある人」は、助けてくれた人、つまり隣人になってくれた人が誰であろうとその人に対して感謝をしたことであろう。皮肉にも、その人が自分が一番嫌っているサマリヤ人であっても。
援助者であると自負する者に欠落している視点は、苦しみ倒れている側の目線である。誰かを援助しようとする強さの視点(誰が隣人か)ではなく、誰が援助してくれたのか(誰が隣人になったか)という視点は苦しむ当事者の視点である。それは自らの無力さを認めた弱さの視点でもある。律法学者の「誰が隣人か」に対して、イエスの革新的な問い返し(「誰が隣人になったか」)によって、改めてこの問いに真摯に向き合う必要がある。そして苦しむ者の傍らに寄り添うイエスの姿とサマリヤ人を重ね合わせてみると、ここに福祉と福音の関係を説くカギがあるように思う。