時代を見る目 231 時のしるしを見分ける [3]

水草修治
日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師

東方の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はいずこに?」と問うたとき、大王ヘロデがおじ惑ったのは当然だった。解せなかったのは、大王から「メシヤはどこに生まれるのか」と問われた祭司長、学者たちが、唯々諾々と「それはユダヤのベツレヘムです」と答えたことである。彼らとて、メシヤを待望するユダヤ人ではなかったのか。メシヤ生誕の地を告げれば、ヘロデ大王がその子を殺してしまうことは火を見るよりも明らかなのに、なぜ教えたのか。
すると、ある友人がこう答えてくれた。「それは彼らが、ローマ帝国支配体制下でそれなりの既得権益に与かる属州のエリート官僚たちだからだよ」と。目からウロコだった。ローマ帝国の属州統治は、地方エリートを取り込んでなされていたため、彼らにとっても、メシヤが登場して現体制がくつがえされては不都合だったのである。
郵政民営化、原発再稼働、TPP、集団的自衛権における動きを見て「政府はなぜ国民でなく米国の顔色ばかり見ているのか」と首をかしげてきたが、ここにその答えがあった。

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そんな時代、神の御子イエスは、帝都ローマの宮廷ではなく、属州の都エルサレムの王宮ですらなく、ベツレヘムの厩に大工の子としてお生まれになった。新約聖書の福音書に主イエスの生涯をたどれば、その眼差しは、常に貧しい人々、己の罪に悩む人々、病人たちに注がれていて、ローマ帝国の支配体制をうんぬんすることには関心を示されなかった。五千人の給食のとき、群衆が主イエスを王として担ぎ出し、帝国の支配体制を覆してほしいと望んでも、あえて身を避けた。
神の王国は、貧しい者が福音を聞き、病める者が癒やされるところに、すでに到来しているのだった。
国や世界の動きを見ていると、不条理に憤りを覚えることもしばしばである。参政権のある現代では、キリスト者には、こうしたことにも声を上げる市民としての社会的責任もあろう。
だが、政治体制の変革によって、そこに神の国が来るわけではない。神の王国は貧しい者、病める者、罪に悩める者のなかに福音が語られ、聞かれ、神と人とを愛する共同体が生まれるそのところに、すでに来ているのである。