折々の言 13 若い牧会者のために(1)
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、 牧会事例研究会のこと
10年ぶりに関西に戻ったことから、若い牧師夫妻を中心とした牧会事例研究会を再開して、もう2年近くになる。
これは「大阪・トゥルニエの会」とともに、もう55歳という年齢に達した今、これから先、後進のために何か役に立つことがないだろうかと思って始めたプログラムの一つなのであるが、この2年間を振り返ってみて、若い牧師は若い牧師なりの苦労、不安のあることがよく分かる。
たとえば、役員会への気づかい(教会によっては若い牧師を「育てよう」とするよりもむしろ「操作」しようとするところもあるらしい)、不安定な教会運営、最近とみに増え続けている心の病の人々の出入り、ストーカーと思われる人々の牧師への非難、中傷、教会は何でも許されると思い違いをして、身勝手な振る舞いをする一部の信徒の非常識と思える言動、また経済的な切迫、多忙による家族問題の顕在化、どれ一つとっても難題ばかりである。
しかしよく話を聞いてみるとそうした問題の背後に、教会を大きくしたい、会員を増やしたい、よき評価を得たいという誰しもが持ち合わせているような焦り、不安が、けっこう神に身をゆだねたはずの若い牧会者たちを、悩ませていることもあるように思われる。そしてそうした優劣を争う姿勢が牧師会にもあり、うだつの上がらない若い牧師にとってそこへの出席はしばしば苦痛になるのだという。しかしこうした欲求は当然と言えば当然である。特に若いときというのは、血気盛んで、勇猛心に満ちているから、牧師といえども、権力、名声、評判、地位といったこの世の誘惑から自由になるのは決して楽ではないからである。
また若いときというのは、悲しいかな、「等身大」とか「自分らしさ(自分の本来性)」ということもなかなか、分からない時期であるから、よけいそうした外向きの働きで自分の存在感を確かめようとする傾向に陥ることも十分あり得ることにちがいない。「自分らしさ」などが少しでも分かってくるのは、そうした試行錯誤の後に違いないからである。
二、 創造性の閉塞
しかし、私自身の個人的な体験から言えば、「数」というものは、それほど大きな、第一義的位置を占めるべきものとは思わない。
もちろん10人や20人より50人、60人のほうが張り合いがあるであろうし、経済的にも安定するにちがいないから、ある程度の「数」というのは必要不可欠の要素にちがいない。
私自身の中にこんな体験がある。200人、300人を擁する教会で、信徒研修会を依頼された際のことである。私はもう「打ち上げ花火的」な一回きりの集会に嫌気がさしていた頃でもあり、こうした連続的な学びに期待した。それで年三回の機会をそれぞれテーマを決めて、それらに関連するテキスト、書籍をあらかじめ送り、その後、それに対する感想、レポートにコメントするかたちで、その学びを深めようとしたことがあった。
ところがおもしろいことにさしたる内容の反応がほとんど出ないのである。それのみか私を驚かせたのは、だいたい同じような考え方、パターンのようなものが多いということであった。キリスト者のストーリーというものはだいたい決まってしまっているのだろうか。
この不思議な現象にヒントを与えてくれたのは、当時お茶の水で月一度行っていた「トゥルニエの会」の一人の受講生からのレポートであった。正確には思い出せないが、たしか次のような内容であったと記憶する。
数年間は受洗の喜びに浸っていた私が、その後、教会に行くたびに、何か心が閉ざされるような思いになるのかがどうしてもよく分かりませんでした。しかし今回『仮面と真実』(ヨルダン社刊)を読んで、私はやっとその危険に気づくことができました。それは「概念化や定義、公式は、把握しがたく動いてやまぬ人格を、受動的な精神的な自動現象の総体にしてしまう」(244―264頁)というトゥルニエの指摘でした。つまり一つの概念化、抽象化は人をパターン化し、創造性を危うくする、宗教すらその例外ではないという彼の指摘でした。
最近私は、H・ナーウェンの「過剰なメッセージは聞く者の創造性を閉塞してしまう」という意味の文章に出会って、さらに同じような危険を感じたのだが、礼拝、礼拝といっても、その内容や質は多くの問題を含んでいるのであろう。
三、「数」を見る牧会と成功主義の高まり
さて、「数」の問題に関してカナダのバンクーバーにあるリージェント・カレッジの神学教授であるE・H・ピーターソンは次のようなことを語っている。
アメリカの牧師たちは「会堂経営者」の一群に変容してしまった。彼らが経営するのは「教会」という名の店である。牧師は経営者感覚、すなわちどうしたら顧客を喜ばせることができるか、どうしたら顧客を、道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるか……、そうした経営者的な感覚に満ちている。
ある者たちは、きわめて優秀な「経営者」である……しかしそれはあくまで「商店経営」にすぎない。……途方もなく大勢の会衆の存在はすばらしいことである。喜ばしいことである。しかしほとんどの信仰共同体が必要としているのは若干の聖人の存在なのである。……「成功した教会」など存在しないという事実を教会は教えている。存在するのは、世界中の町や村で、毎週毎週、神の前に集う罪人たちの集い(がある)にすぎない。(『牧会者の神学』 越川弘英訳 日本基督教団出版局 8頁)
四、地道な歩みを
もちろんこうした指摘はごく限られた一部の教会に見られる現象であろう。しかし『信仰による人間疎外』(いのちのことば社刊)の出版以来十年余、「私の行った教会は会社組織のようでした」とか「今考えると、私たちは教会の拡大の手段に利用されただけです」といった声をずいぶん多く聞いてきたが、若い牧師にとって、この世の成功主義との戦いは大きな課題のように思われる。
多くの犠牲を払い、夢を抱いて宣教の世界に献身した若い夫婦が、この種の成功主義や商業主義に毒されず、この種の誘惑と本来的な祝福と豊かさの違いを知って、牧会に携わってくれることを心から願う。そしてまた祈る。人を集める教会ではなくて、人が「自然に」集まってくる教会が静かに形成される地道な歩みをと。
それは神の御働きは、自然で、人為的なものではないことだけは確かだと思うからである。