ふり返る祈り 第2回 イライラは黄色信号のメッセージ

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授(牧会カウンセリング他)、同学院教会牧師。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
詩篇139篇23、24節

神様、私たちはほんの少しのことでイライラし、不安になり、怒ったりします。 そして、それが沸々と心にとどまるのです。 けれどもまた、ほんのささやかなことでうれしくなったりもして、私の一日を力づけるのです。 主よ、どうか私の心を探り、どこに病的なものがあって、 どこに罪的なものがあるかをお示しください。 また、どこにあなたの恵みがあるかを疎い私に示し、その恵みを味わうことができますように。 そのために今日もあなたの前に静まり、自分の姿をふり返る時間を取らせてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

イライラは私たちの心への黄色信号です。そわそわして心が落ち着かない、だれかのちょっとした態度やことばに腹が立つ、今の状況に苛立ちを感じる。でも問題のあの人、この人が少しでも変われば、イライラはなくなるでしょうか。今の状況が改善されれば、私の心は治まるでしょうか。いや、治まらないのです。今度は別のことでイライラするでしょう。本当の問題は別のところにあるような気がします。有名なコリント人への手紙第一の一三章の文章、「イライラ」を主語にして、ちょっと変えてみるとこんな風になります。

イライラは寛容でなく、不親切です。人をねたんで、高慢になり、礼儀に反することをします。自分の利益をことさら求め、怒ります。人のした悪を思い、不正を喜ぶことはしないでしょうが、真理を素直に喜びません。すべてがガマンできず、すべてを信じることができず、期待もせず、すべて耐え忍ぶことができません。

イライラしている自分は驚くほど不寛容です。人のことが赦せず怒りやすいのです。自分は正しく相手が間違っていると主張して高慢になっています。相手に対して親切どころか意地悪なことを言いたくなります。普段は言わないような無作法なことばを吐いたりしますね。そして、「チェッ! あいつだけがいい目を見てるんだ」と人を妬みます。他人の悪いところだけが目につきます。よいところへの感謝など微塵も出てきません。本当のことを言われても素直に従えません。ごめんなさいと言えません。イライラは物事が自分の願うようにならないとき、特に自分が正しいと思えば思うほどガマンできなくなります。さらに自分が思うように動けないとき、自由を感じられないとき、忙しさに心が乱れている時、イライラは募り、何も信じられなくなります。

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イライラの「苛」とは、もともと草木の「とげ」を指すもので、そのことばを重ねてチクチクするような不快感を表したものだそうです。自制力が強い人はイライラを抑えて表面には見えないようにすることができるかもしれませんが、これがたまってくると思いがけないところで爆発したりします。特に身内に対して爆発します。妻や夫、親や子どもに対して過度に怒ってしまうことってありますね。自分でも驚くことがあります。自分にとって大事な人を傷つけたりするのです。なぜ寛容になれないのでしょうか。「愛は寛容、……愛はいらだたない」と聞くと自分はダメだと思ってしまう。おまけにイライラは連鎖します。伝染します。イライラはどこかにぶつけざるを得ないのです。ぶつけられた人にはストレスとなって、その人のうちにもイライラが発生します。

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イライラの心の根底には不安があります。無力感があって何かを訴えています。叫んでいます。浅くない傷があって、愛されることを望んでいます。実はその心は祈ることを望んでいて、神様とつながることを切望しているのです。「だれか私のことを愛してください。安心させてください。すべて大丈夫だと言ってください!」神様の静かな声を聴くことを願っています。神様は私たちを限りない愛で愛してくださっています。けれども私たちは日々の忙しさに埋没してしまい、目先の課題でふり回されて、神様の愛を感じることができないまま無理して突っ走ってきたのです。神様の愛と恵みを経験するには、神様の前で静まることが必要なのです。今していることをやめて、しばし立ち止まり、自分のしてきたこと、感じたことをふり返り、みことばに耳を傾けましょう。