時代を見る目 257 豊かな信仰を目ざして [2] 裁判官か父か?

河村従彦
インマヌエル聖宣神学院院長

「カミサマ」は「裁判官」か「父」か。
そんなこと考えたこともないとおっしゃるかもしれません。そもそも、裁判官だの父だの、神さまをそんな人間くさいものに重ね合わせること自体、失礼ではないのか。自分にとって神さまはどこまでも栄光と尊厳に満ちあふれた「カミサマ」であり、それで全部だ、とおっしゃる方もあるかもしれません。このようなことを書いている自分も、あるときまで「カミサマ」の中身など考えもしませんでした。ところが、牧師・人間として行き詰まってしまったとき、ちょっと待てよ、と思いました。なぜ自分は、律法主義や完璧主義にはまり込んでいたのだろう。背景をたどっていくと、自分にとっての神さまイメージが裁判官だということが少なからず影響しているように思えました。

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律法主義は「できた」「できない」で自分の価値を決めます。ですから、神さまが裁判官だということと表裏一体です。皮肉なことに律法主義は、神さまが裁判官でいてくれるほうが心地よいのです。いわゆる「快」です。ところが、自分では「快」を感じつつ、周囲の人には厳しく、信仰の体質は完璧主義的になっていきます。神さまイメージ研究の中でひとつ焦点になったのは、幼少期に形成される基本的信頼感やアタッチメント(愛着)と神さまイメージの関連でした。0~1歳の頃、周囲の人、たとえば母親との関係が良好だった人は、基本的信頼感も自己イメージも比較的肯定的であり、神さまイメージも肯定的です。もちろん幼少期が全部を決めるわけではありませんが、大切であることは確かです。

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神さまイメージは、自分を振り返る通過点になります。自分の神さまはなぜネガティブなのか。愛にあふれた「アバ(父)」ではなく、わずかなミスも許さない義なる裁判官なのか。もちろん、神さまの義はどうでもよいといっているのではありません。基準が1ミリも下がらないからこそ恵みが必要だということが体験的に分かるのですが、このような振り返りをした信仰はうわべだけのものでなく、自らの存在そのものを問う、より実質的なものになります。
神さまイメージという視点から信仰を問い直してみると、何か違う風景が広がるかもしれません。