たましいの事件記者フィリップ・ヤンシ―
その探究の軌跡 第2回 『神に失望したとき』
山下章子(やました・しょうこ)
東京に生まれる。
学習院大学文学部哲学科卒業。
カリフォルニア大学サンタバーバラ校留学。
現地にて受洗、フィリップ・ヤンシーの著作に出会う。
英会話学校講師を経て、翻訳者に
フィリップ・ヤンシーの探究の軌跡を知りたい方には、まず『神に失望したとき』を読むことをお勧めいたします。神を信じきれない人間の気持ちから始めて、キリスト教の神をどのような御方ととらえるのか、いま生きている私たちに求められているのはどのようなことなのかなど、基本的な問題が考察されているからです。
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ドキッとするようなタイトルを掲げたこの本は、著者がある大学院生と出会うところから始まります。リチャードというこの院生はヨブ記をテーマに素晴らしい論文を書き、指導教授の勧めもあってその論文を本の形で世に出すことが決まっていました。ところが出版直前になってリチャードはヤンシー氏に告白します。この論文に書いたことを自分は信じていないのだ、と。
彼は神に対して激しい怒りを覚えていました。あなたの存在を示してほしいと必死に祈ったのに何の答えもくれなかったではないか。神はヨブにはご自分の姿を現したのに、同じように神に抗議の声を上げた自分にはそうしてくれないではないか、と。リチャードは、神なんていやしない。いるとしたって人間の心をもてあそんでいるだけだ。こう結論して著者のもとから去っていきます。
ヤンシー氏は驚き、いったん悲しみに沈みますが、この青年に不信仰者の烙印を押して終わりにするのでなく、冷静に彼の怒りの背後にあるものを見いだそうとします。
最初に気がついたのは、この青年の怒りは裏切られた者の感ずる怒りである、ということでした。さらに、その気持ちの奥には三つの疑問が潜んでいることを突き止めます。「神は不公平なのか」「神は沈黙しているのか」そして、「神は隠れているのか」。これらの疑問は宗教一般に懐疑的な人たちばかりでなく、たとえキリスト教の信仰者であっても心のどこかに隠し持っている場合が少なくありません。著者に送られてきた手紙やかかってきた電話からもそれは明らかですし、諸外国での大きな反響や、日本でも本書を機にヤンシー氏が多くの読者を得たところを見れば、これら三つの疑問が人間にとって本質的な性質をもつものであったことが分かります。さて、いったい聖書はこれらの問いにどう答えるのか。その探究が本書の主要部分です。著者は多くの人が心に秘めている疑問を真摯に取り上げたうえで、神の側の心情も同じ俎上に載せます。人が神に対して抱く理不尽ではないかという怒り、一方で神が人に対して抱く思い。ここにヤンシー作品の大きな特徴があります。
人が神に対して上げる心の声をないがしろにせず、むしろその声の源にある神学的な問題を明らかにしようとすること。そのうえで、人を救うはずの聖書に答えがあるのか、丹念に読み解いてゆく過程。読む人は心の奥に秘めていた疑問を暴かれて動揺するかもしれませんが、自分に代わって信仰上のカミングアウトがなされるともいえます。疑問を発端として神の「人となり」―おかしな言い方ですが―が立ち現れ、不信仰な部分を持つ自分から正直に出発すればいいのだと励まされることでしょう。
聖書を創世記から読み直して追究する著者に、どのようなことが見えてきたか。詳細は実際にお読みいただいてのお楽しみといたしますが、改めて読み返した筆者に少しだけ言えるのは、旧約の時代には足りなかったものがあり、それで新約の時代に入ったこと、そして今生きている自分たちも確かに神と人の歴史の中に存在していると再認識することができた、ということです。この世にイエスが送られた理由、聖霊が私たちの内に住まわれることの意味など、ヤンシー氏が不信仰者の疑問の答えを丹念に探ってくれたからこそ見えてきたものがありました。
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本書に登場するリチャードは、ヤンシー作品の中でも忘れがたい人物の一人です。神に激しい怒りをぶつけるリチャードはあなたであり、私であるかもしれません。あるいは少し前までのあなたであり、私であったかもしれません。そして、今私たちの周囲にも何人かのリチャードがいることでしょう。
けれどリチャードは神を強く意識している分、神からそれほど遠くないとも言えます。ヤンシー氏の言葉にもありますが、真の無神論者は神に失望することなどないからです。残念ながら日本人の多くはリチャードほど神を強く意識していないように見えますが、著者の探り当てた三つの疑問は日本の人々も実は意識の下に持っていはしないでしょうか。本書に学ぶ意義はそんなところにもあるように思われます。