時代を見る眼260 いまを生きるみことば [2] 「時代のしるし」を読む
在日大韓基督教会牧師
社会福祉法人青丘社評議員
金迅野
マタイの福音書16章の冒頭には、「時代のしるし」についてのイエスの言葉が記されています。表面的には同じ「赤い空」が朝と夕では違う意味を持つことを知っているのに、「時代のしるしについては知らない」という指摘です。イエスは、人々のこの理解のあり方を「ヨナのしるし」に例えて語ります。
魚に飲み込まれた象徴的な「死」の「三日三晩」の後にヨナが社会に「復活」する物語を人々は確かによく「知っている」けれども、これから起きることになるイエスの十字架の「死」と3日めの「復活」については知らない。そのことが、ここで、鋭く語られていることに私たちは気づきます。
確かに、現代社会を生きる私たちは、古代を生きる人々とは比べものにならない正確さをもって、天気予報のように政治、経済、社会の分析や予測をすることができるという意味で、「時代のしるし」を「知っている」のかもしれません。しかし、私たちは誰かの「痛み」を「十字架の死」として、いま、見たり、聴いたりすることができているでしょうか。そして、「復活」という驚くべき出来事が示唆する「いのち」がどのように扱われているかを、鋭敏に感じ取ることができているでしょうか。
たとえば、都会で毎日のように起こる「人身事故」。アナウンスが聞こえるたびに、人々の舌打ちを耳にしたり、迷惑そうな人々の表情を、私たちは眼にしないでしょうか。あるいは、「忙しさ」という「魚」に飲み込まれて、思わず舌打ちし、「人に迷惑をかけない形で死んでくれよ」とつぶやく「声」を、自分の中に感じることはないでしょうか。
ギリシャ哲学が人間個人の「いのち」は消えても「世界」は存続すると考えたのに対して、キリスト教は、逆に、「世界」は滅びても「いのち」は残ると考えたといわれます。イエスの復活の「いのち」が信仰に深く刻まれていることがわかります。
今、私たちが生きるこの時代は、人間ひとりひとりの「いのち」がほんとうに大切にされている時代といえるでしょうか。誰かの叫びが、声にならない声が、かき消されてしまうような「時代のしるし」が、いま、現れてはいないでしょうか。十字架と復活の事件を通して、「痛み」と苦悩と死を乗り越えた復活の「いのち」を深く心に刻みながら、ほんとうの「いのち」をこそ、「しるし」として生きる、私たちでありたいと思います。