ねえちゃん、大事にしいや。第2回 私のこれまでの道のり

入佐 明美
一九五五年生まれ。看護専門学校卒業後、病院勤務を経て、八〇年より釜ヶ崎でケースワーカーを務める。著書に『ねえちゃん、ごくろうさん』(キリスト新聞社)、『いつもの街かどで』(いのちのことば社)、『いのちを育む』(共著、中央出版社)、『地下足袋の詩』(東方出版)等がある。

看護師を辞め、日雇い労働者の街・大阪釜ヶ崎でケースワーカーとして働き始めて三十六年。そこで出会った人たちから教えられたことを綴った『ねえちゃん、大事にしいや。』が七月に出版される。その一部を三回に分けて掲載!

私は労働者の話を、最初のうちは顔を見ながら、うなずいて聞いていました。人によっては三十分ぐらい話したり、それ以上長く話す人もありました。時間の経過とともに、私の顔がさがってうつむいていることに気がつきました。つらい体験や苦労した話を聞いているうちに、心の中が、
(そんなつらい中、よくがんばって生きぬかれたのですね)
(苦労を乗り越え、痛みを乗り越えながら、よく生きてこられたのですね)
という思いでいっぱいになりました。労働者が生きぬいてこられた道のりに、頭のさがる思いでした。
私は、自分が生きてきた道のりをふり返りました。それまでは将来のことばっかり考えていました。看護師になってネパールで医療奉仕がしたい。その前に釜ヶ崎で二、三年ケースワーカーをしよう、と願っていました。
労働者の話を聞くうちに、生まれてはじめて立ち止まり、今までのことをふり返ってみました。
私は一九五五年生まれです。
(小さいころから、三度のごはんはお腹いっぱい食べてこられたんだなあ……。父も母もいてくれたし、『大きくなったら、何になりたいの?』と聞いていてくれたんだなあ……。私は夢を持てるような家庭環境で、質素ながらも何不自由なく生きてこられたんだなあ……。)
そんな気持ちが心にわいてきました。どちらかといえば、私は与えられた人生を選びながら生きてくることができたのだと思います。そして、そのことは、あたり前のこととして今まで生きてきました。
私が相談にのろうとしている人たちは、与えらえた人生を選ぶことができなかった、選択肢のない中でしか生きることが許されなかったのだと思いました。
労働者が生きてこられた人生に、自分を置き替えて考えてみました。私だったら、生きぬいてこられただろうか、もし、生きぬくことができても、今ごろ、どうなっていただろうか。
労働者が生きぬいてこられたという現実、今、私の目の前に生きておられるということに、心の底から尊敬の気持ちがわいてきました。
その方たちは戦争の犠牲者であり、経済政策の犠牲者、差別構造から生み出された犠牲者であると思いました。
私はたまたま生まれた時代、場所、環境が、今まで犠牲者にならなくてすんだだけだと気づかされました。国の政策の矛盾を、命をけずりながら引き受けている人たちがいることを目のあたりにした思いでした。
一部の人たちにしんどさを押しつけながら何も気づず、のうのうと生きている私たち。ほんとうにケースワークが必要なのは私自身ではなかろうか。今まで世の中のことをまったく知らないで生きてきたのだ、私は限られた空間の中で生きてきたのだ、と気づいたとき、得体の知れない絶望感がおそってきました。
その絶望感は、私の心の深いところをえぐってくるような感じで、今までまったくわからなかった自分自身の姿が見えてきたのでした。

もしかして、信仰のありかたも間違っているのではと思い、ふり返ってみました。十八歳でキリスト教と出会い、神さまをいつも意識して生きてきました。神さまを一番にして求めていると思っていましたが、心の底では、夢を実現したいという自己実現を求めている自分に気づきました。労働者を、夢を実現するための対象として位置づけていることが見えてきたのです。
信仰も、口にしていることと本来の自分の心の底の違いに、再び落ち込んでしまいました。天井を見ながら、もう生きるのは無理だと思ったとき、ひとつの言葉がひらめきました。
「生まれ直そう」
過去の自分は死んで、今から生まれたての赤ちゃんになって人生を生き直そう、よちよち歩きでもいいから、新しく出発しようと願いました。