ふり返る祈り 第19回 ありのままの自分と 演じている自分

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。創世記1章31節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私は私なりに頑張っているつもりです。けれども、自分でない自分を演じているようで苦しいときがあるのです。主よ、私をあわれんでください。あなたに与えられた、ありのままで生きることが喜びとなりますように。あなたはこんな私を覚えて愛してくださっています。どうか私を偽りの自分から自由にして、心からあなたを愛し、隣り人を愛していくことができるようにお守りください。

自分が何者であるか、どういう人間であるか、自分はどんな顔をしているか、何度自分に問いかけたことでしょう。「パーソナリティー」のもとの言葉の意味はマスク、つまり仮面です。人と会っているとき、私たちは大抵、自然なありのままの顔をしていません。自然な人の顔を見たければ、道行く人の何気ない顔をごらんなさい。朝、駅に向かっている人の顔は、眠そうな表情もあれば、すでに疲れたようすの人もいれば、緊張している人も見えます。一人で道を歩いているときは自分が見られているなんて思いませんから、心の中のありのままの姿を顔に出しているのです。みな、実に興味深い顔をしています。

人と会っているときは、それに合わせた顔をしています。ある中学生が言っていました。自分は学校では学校の顔をしている、家では家の顔をしている、教会では教会の顔をしている、自分の本当の顔はどんなだか分からなくなってしまった! そうなんです。いつも仮面をかぶっていると自分の素の顔がどんなものであったか、私たちだって分からなくなるのです。
二十年ほど前、私は顔面神経麻痺という病気を患ったことがあります。顔の半分の筋肉が動かなくなったのです。それは突然起こりました。朝、起きて歯を磨いていると、口から水がピューピューこぼれます。おかしいなと思って鏡を見ると、顔の半分が死んだようになっていました。片方の目のまぶたが半開き状態で、それ以上開けることも閉じることもできません。笑顔を作ってみると顔の半分がだらしなく垂れ下がっています。医者に診てもらうと、原因不明の顔面神経麻痺という診断。半年くらいで改善されるだろうが、ちゃんと治るかどうかは分からないと言われました。まばたきができないので目が痛まないように指で強制的にまばたきをさせるとか、夜はテープで目を閉じるとか、食べるときは口を手で押さえながら食べるとか、さまざまな不便がありましたが、私にとって最大の悩みは、人前で顔が作れないことでした。笑顔ができません。無理に表情を作ると顔が歪みます。これは精神的に苦痛でした。文字どおり人に良い顔ができないのです。
教会でさまざまな人と会います。初めて出会う人も少なくありません。相手に良い印象を持ってもらうために、笑顔ができなくなるという事実は自分をどれだけ不安にさせるかが分かりました。私は出会う人、出会う人に、私は病気で無表情になっています、本来はもっとましなんです、と言いたくなりました。ありのままの姿では不安なのです。

日本人は自己肯定感が低いといわれます。四年ほど前に内閣府から発表された若者の意識調査がありました。自己肯定感についての日本、韓国と、欧米を含む七か国の比較調査です。「自分自身に満足しているか」という質問にイエスと答えた若者が、日本以外の国ではすべて七〇%以上だったのに対して日本は断然低く四〇%台でした。日本人の半分以上はありのままの自分が好きではないのです。私自身も基本的に自己肯定感は低いのだと思います。だから顔が半分動かなくなったとき、大きなストレスになったのです(幸い三か月ほどでほぼ以前の状態に戻りましたが)。生まれもっての性質、育った環境、文化によって自己肯定感には差異があります。総じて自己肯定感は高いほうが健全だといわれますが、これが低い人は少なくありません。
私たち人間の身についた自己肯定感の高低にかかわらず、私たちを肯定してくれる存在があります。私たちの真の自己肯定感の根本は、創造主にあるのです。神はご自身が創造されたものを「これで良し」とされました。神は常に私たちに語りかけておられます。あなたを私が造った。そのままのあなたが大事なのだ。あなたが思う以上に私はあなたを愛している、あなたが苦しむときは私も苦しみ、あなたが喜ぶときは私も喜ぶ。罪の支配するこの世界では、自然な自己肯定感は病んでいるかもしれません。だからこそ私たちは自分の価値を、自分の感情を基準にするのではなく、神のことばを基準にするのです。