あたたかい 生命と 温かい いのち 第四回 心の言葉に耳を傾ける
福井 生
1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。
今の時代、人々は一歩前に足を踏み出せず、安全な状態に留まろうと情報検索に時間を費やしているように思うのです。安全な状態とは、誰もその人を見ておかしいと思われない状態です。しかし情報検索で得るものは、生き物みたいなもので、そのつど変化していくため永遠に続きます。気がつけば情報に囚われ、孤立し、しかし、周りの人たちも同じような状態なので、そこから抜け出す必要を覚えないのです。
何だか穏やかでない書き出しになってしまいましたが、私はこの時代、止揚学園の知能に重い障がいを持つ仲間の人たちにとって、非常に暮らしにくい時代だと思うのです。状態が不安定なため、人と人の関係が、マニュアル化された範囲内でのおつきあいになります。例えばうそや間違いは今の言い方でいうと「アウト」です。でもすべてのうそや間違いが「アウト」ではないような気もするのです。
学生のころ、インドを旅したことがあります。インドで道を尋ねますと、「知らない」と答える人が少なかったように記憶しています。だからといって知っているわけではないのです。ただ「知らない」と答えることで、困っている人の悲しむ顔を見たくないという願いのほうが強かったのだと思うのです。
現在の社会は曖昧さを排除し、正しいのか間違っているのかを見極めようとします。データ化の波がその象徴です。人の許し方でさえマニュアル化してしまう時代が来るのではないかと心配してしまうのです。でも心はデータによって囚われるものではありません。多くの場合、この曖昧さを受け入れることができる心があるから人間関係は円滑になります。止揚学園の仲間たちにとって大切なのはマニュアルを超え、相手の気持ちに寄り添おうとする柔軟な心なのです。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3・16、新共同訳)
今年度の止揚学園の目標聖句です。ここにマニュアルはありません。しかし曖昧でもありません。この聖句と向き合い、感謝する心を持ち続けるのかどうかが今、私たちに問われています。
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仲間たちとクラシックコンサートを近くの町に聴きに行きました。
たまにこのような音楽を聴きますと、気持ちまでもがいつもと違うモードに入ってしまうのです。仲間たちの中で普段演歌しか聴かない人も、三十年前のアイドルの歌を、今もまだ当時の情熱冷めやらずに毎日聴く人も、クラシックの気持ちよい音楽に魅了され、酔わされるのでした。コンサートが終わりその帰り道、ウィンドウを見ながら歩いていますと、おいしそうなモンブラン(栗のケーキ)が店先に並んでいました。普段ならばそのままやり過ごすところでしょうが、この日ばかりはクラシック音楽の雰囲気に包まれている私たちです。隣のラーメン屋さんでなくケーキ屋さんのほうに足が向かったのでした。
次の日、「本当においしいボンゴレでした」と彩香さんがうれしそうに何度も私たちに興奮して、話してくれるのです。私たちは初め何のことを言っているのか見当がつきませんでした。ボンゴレは止揚学園の食事のメニューの中でもみんなが大好きなあさりのパスタです。昨日ボンゴレは誰も食べていません。彩香さんは喜びを共有したいのに相手がキョトンとするので、声を大きくするのです。
「ボンゴレ、おいしかった」
「昨日いただいたのはモンブランというのよ」
彩香さんの言わんとすることが分かった職員の田所さんが間違いを教えてあげると、今度は彩香さんがキョトンとする番です。そして、
「英語だから一緒です。」
堂々と胸を張って教授してくれたのです。そこでは現代の物事を仕分けし、マニュアル化しようとする兆候は完全に無視されています。でも心を強くし、心を一つにする響きがあるのです。田所さんは笑いだしてしまいました。みんなもこのおおらかさに温かい笑顔に包まれるのです。
厳密にいうと、彩香さんは間違っています。
それでも知能に重い障がいを持つ仲間たちの発する言葉には、あふれんばかりの優しい愛があります。その言葉から幾つの愛の結晶を見いだすことができるかは、私たち次第です。
情報に囚われ、孤立し、足を踏み出せない状態でいるよりも、私は、仲間たちが笑顔のうちに語ってくれる心の言葉に耳を傾け歩むものでありたいのです。