聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか?新連載〈3〉 旧新約の訳語の調整

全面改訂がどうして必要なのか。もう一つの理由は、初版から第三版まで十分扱えなかった問題があることでした。特に、旧約引用や旧新約間の訳語の統一に改善の余地がありました。
新約聖書の初版は一九六五年に出版されましたが、旧約聖書はその四年後になりました。新約だけの版が流通し、すでに読まれていたので、旧約ができあがっていく過程で、訳語訳文を調整することは難しかったのだと思います。今回、『新改訳2017』は、旧約と新約、二つの改訂作業を、ほぼ並行して進めることができました。それだけでなく、幸いにも旧約引用を専門とする編集委員がいたので、チームですべての箇所に検討を加えることができました。

こうして改善することのできた箇所は、たくさんありますが、マタイの福音書の中からいくつか例を拾ってみましょう。まず、12章18節の「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ……わたしは彼の上にわたしの霊を置き」は、イザヤ書42章1節にある「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ……わたしは彼の上にわたしの霊を授け」の引用です。「これぞ」と訳されたギリシャ語は、他の箇所では普通「見よ」と訳されている言葉ですから、「見よ」で統一することに問題はありません。また「霊を置き」も「霊を授け」と訳せるので、全体をイザヤ書に近づけることができました。また、21章42節にある「(家を建てる者たちの)見捨てた石」は、詩篇118篇22節に合わせて「捨てた石」、22章44節の「足の下に従わせるまでは」は、詩篇110篇1節に合わせて「足台とするまで」とすることができました。

マタイの福音書4章4節は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と訳されてきました。「?による」で終わる文は、やや落ち着かない感じがしますが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばで生きる」とするだけで改善できます。引用元の申命記8章3節には、ヘブル語の「生きる」という動詞がくり返されていて、申命記の訳はそれを反映していますが、マタイの引用もそれに合わせることになります。「合わせる」と言っても無理に訳を統一しているわけではありません。ギリシャ語では、動詞は一つでも、それが両方の文にかかっていると考えられるからです。
その一方で、第三版の申命記の「主の口から出るすべてのもの」は、「主の御口から出るすべてのことば」に変わります。結果として、旧約の訳文が新約のそれに近づきます。これも無理にしているわけではありません。旧約のテキストに「ことば」という語そのものがなくても、「口から出るもの」は「ことば」にほかならないからです。実際、いくつかの英訳では「ことば」と訳しています。

このように旧約、新約の訳文の調整をしてきましたが、それは決して機械的な作業ではありません。例えば、イザヤ書40章3節とマルコの福音書1章3節にある引用を比べてみましょう。第三版では、前者に「大路を平らにせよ」とあり、後者には「主の通られる道をまっすぐにせよ」とありました。動詞は、ヘブル語もギリシャ語も「真っ直ぐにせよ」と訳すことができるので、新約に合わせることになりました。一方、名詞も「大路」で統一する可能性を検討しましたが、新約のギリシャ語は、「人々が通って踏み固めた道」というニュアンスがあるので、「主の通られる道」がふさわしいと判断し、無理に統一しませんでした。

引用以外の訳語の統一はどうでしょうか。同じものを指していながら、旧約では「子羊」、新約では「小羊」、音読すれば同じですが、漢字の表記が分かれていました。聖書の「こひつじ」は、本来子どもの羊であって、小さな羊ではありませんから、聖書全体を「子羊」で統一します。また、新約の「孤児」と旧約の「みなしご」という違いもありました。文脈によってふさわしいものを選ぶ必要がありますので、どちらかに統一、というわけにはいきません。新約はそのままにし、旧約は一部(「寄留者」の後に来る場合など)「孤児」に変更することになります。
さらに、「淫行」という訳語は、旧約に三十六か所、新約ではペテロの手紙第二に一か所あるだけでした。それに対し、同じことを意味する「不品行」は旧約にはなく、新約では三十五回使われていました。後者の意味は分かりにくいので、「淫行」や「淫らな行い」に変更します。また、「よみ」という訳語は旧約のシェオールだけに当てはめられ、新約でそれに対応するハデスは、そのまま片仮名表記でした。これも「よみ」で統一することになります。

 

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