時代を見る眼275 [2]『神の秘められた計画』福音の再考 宣教の言葉のパラダイム・シフト
四街道 惠泉塾
後藤敏夫
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)という今盛んに語られるみことばを、私は教会生活のある時期まで聞いたことがありませんでした。それまではヨハネ3章16節が小聖書と呼ばれて福音派の宣教の中心聖句でした。どこかで宣教の言葉のパラダイム・シフトが起こったようです。それはたとえば中高生のキャンプなどで、「あなたは愛されている」とか「あなたは宝物」とか「大切なきみ」といった主題が好んで取り上げられるようになったころ、私の記憶では1970年代の終わりから1980年代にかけてのことです。
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その背景には、急速に進行する世俗化、人間の全体性が失われ心理的に切り刻まれるストレスに満ちた競争社会、家庭の崩壊とも結びついた現代人のセルフイメージの低下と自己承認欲求、そしてポストモダンの思想や生活様式の多様化ということがあります。そういう中で、それ以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的メッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなり、窮屈で抑圧的にすら感じられるようになりました。
牧会の現場に心理学やカウンセリングが導入され始めた頃、新しい風が吹いて来るようで、あるがままの心と身体が軽くなるような喜びや解放感がありました。しかし、どこかで福音派の講壇のメッセージや信仰がより実利主義的になり、人間中心になりました。それは賛美の歌にも反映します。「きみは愛されるために生まれた」というのは大切な福音のメッセージです。しかし、「きみは愛するために罪を赦されて新しく生まれた」という十字架の福音のメッセージを聞くことは稀です。
「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪が赦されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教の言葉が、救われた者としてイエス様に従う生活を生み出さないという現実があります。『神の秘められた計画』は、十字架の罪の赦しは何のためだったのか、私たちが救われた目的は何かを再考した本です。それはこの時代を生きるクリスチャンにとって、キリストの福音を宣べ伝えるために切実な課題です。