あたたかい生命と温かいいのち 第八回 言い尽くせない安らぎ
福井 生
止揚学園の知能に重い障がいをもつ仲間の賢人さんが、六十歳を迎え還暦のお祝いをすることになりました。
夏になっても朝晩は冷えるので、私たちは真っ赤な布で手作りのひざ掛けを作り、「六十歳の誕生日おめでとうございます」と刺繍して贈ることにしました。
賢人さんは腰の骨を悪くし、車いすの生活が続いています。設立当初、止揚学園は、今のように成人施設ではなく、知能に重い障がいをもつ子どもの施設でした。そのころに賢人さんは止揚学園に入園してきたのです。賢人さんにはてんかん発作があります。何の前触れもなく突然激しい痙攣に襲われるのです。賢人さんのてんかん発作のことで、私には今も心に残っていることがあります。
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私は職員の子として止揚学園で生まれ、知能に重い障がいをもつ仲間たちと一緒に成長してきました。私がまだ小学生のころ、京都の梅小路の博物館に機関車を見に出かけました。賢人さんも一緒でした。一日を楽しく過ごし、帰り路の足取りも軽かったのです。そのとき、賢人さんが突然てんかんの発作を起こしたのです。気がつけば賢人さんと男性職員が、アスファルトの上をゴロゴロ転げ回っていました。男性職員は激しく痙攣を起こしている賢人さんを抱きかかえようと必死だったのです。周りにたくさんの人が集まってきました。
「〝知恵遅れ”が発作起こしてるで」
当時は、そのような心ない言い方をする方がおられました。その中には心から心配してくださっている方もおられたはずです。しかし、私が気になったのは興味本位な視線、笑っている方々の視線でした。
社会にはこのような人たちもいるのだという挫折感は、羞恥心へと変わっていきました。本来なら私は、一緒になって男性職員と賢人さんの生命を守ろうと心を一つにしなくてはならなかったのかもしれません。
しかし恥ずかしさのあまり、近くのバス停の中に隠れてしまったのです。バス停の中で外部の気配をうかがっているうちに騒ぎも収まってきました。突然賢人さんの笑い声が聞こえてきたのです。賢人さんはけいれん発作が終わり、苦しみが和らぐと、いつも大声で笑い出すのです。私はほっと安心しました。
周りに集まっている人々が、突然笑い始める賢人さんを不思議そうに見ているようすが思い浮かびました。それでも外の世界は落ち着きを取り戻し、だれもが(あの心ない言葉を叫んだ人でさえ)安堵した空気に包まれていることを感じたのです。そのとき私は、ひとりバス停に座っていたのでした。
賢人さんの還暦のお祝いの後、そんなことを思い出していた私に一人の職員が一枚の写真を置いていってくれました。それは賢人さんが赤いひざ掛けを掛け、その上に職員の子どもの温君を抱いている写真でした。二人がニコニコと笑っていました。温君は今年の六月で一歳になりました。私は写真の中の温君を抱く賢人さんの温かい手を見つめるうちに、心に熱いものが込み上げてきたのです。
賢人さんの手と、あのときの男性職員の手が私の中で一つになり、優しく語りかけてくれているような思いにとらわれました。
「だれもが優しい心を持っているのだから、生命を守ることを諦めたらだめだよ」
私が逃げ出したのは、恥ずかしさからではなく、いつかは男性職員のように生命を守ろうと飛び込んでいかなければならない、いつかは止揚学園の仲間たちの生命とともに歩んでいくことを始めなくてはならない、という自らの未来からだったのかもしれません。
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生命は同じ時代に生きる人々の優しい手の中で、温められていきます。そして次の時代へと引き継がれます。
今このとき、賢人さんの温かい手に私自身も包まれているような、言い尽くせない安らぎのうちに自らを見いだすのです。
「私たちは神様から赦され愛されているのです」
この安らぎのときにこのように言ってくれたのは、だれなのか分かりません。もしかしたらあのとき、バス停の中で耳をそばだてていた私にも優しい言葉は語られていたのかもしれません。
人は希望を与えられたとき、初めて安らぎを得ます。言い換えれば、希望がなければいくら休養したとしても、心の不安は取れることはないのです。
これからも止揚学園の皆とともに生命と真剣に向き合いつつ神様の光に向かって前進していこう、神様の光に照らされ、その安らぎのうちに歩んでいこうと胸が弾むのです。