折々の言 16 私語のない中学校のこと2
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医
一、中学生からの感想文
前回、私は私語の全くない公立中学で話をした驚きを述べ、中学生の感性の純粋さに感動したことを述べた。
前回、紙面の都合で割愛したが、一緒に送られてきた感想文の中には、次のようなものがあった。
- 生徒(2) 工藤信夫先生の講演を聞いて
- 私は、今までに、「自分は何のために生きているのか」とか「自分は生きてる意味があるのか」と考えたことがあります。その度に辛くなります。しかし、工藤先生は(今回)「生きてる一人ひとりに意味がある」とおっしゃいました。また、「一人ひとり何か優れた才能がある」ともおっしゃいました。
けれども私にはまだ「これだけには自信がある!」というものがありません。しかし、これから自分の好きなことを生かして、その仕事に就きたいと思っています。さらに私は何のために生きたのか、誰かの糧になれただろうかと、そういうことも探し出せたらいいなと思います。失敗を生かしていきたいです。私の人生、それらの答えを探す旅をして歩んでいきたいです。
「落第のない学校」のお話は非常に影響を受けました。学校に来て嫌な思いをして学校に来れない人もいます。そうさせているのは私たちだ、と教わりました。そうだと思います。
そういう人は全然悪くないのに、その人を見る目がいけない私たちが加害者だと思います。私はこれから「落第のない学校」を目指して気を付けていかなければならないとそう改めて思いました。
今回の講演会全体を通して思ったのは、今の私はもう少しいろいろなことを考えていかなければいけないということです。自分の人生や、世界の状況などについてです。そうしたら、私は今どれだけ幸せな立場か分かると思います。
今回私が考えた「人間としての大事なもの」は、「様々なことを想う気持ち」だと思います。うまく言い表せないけれど、自分だけでなく視野を広げた面での想う気持ちだと想います。私はまだ視野が狭いです。本当に小さいです。これから少しずつ自分の力で広げていけたらいいなとそう思いました。
- 生徒(3) 講演を聞いて
- 今日の工藤信夫先生のお話は、自分を見る角度を少しかえてくれました。私の中で印象に残っているのは三番目の「大切な自分の発見」のところのお話です。
「自分との出会い」というのは、自分と向き合うことだと私は思います。自分と向き合うと自分のことがだんだん分かってくるのです。自分の嫌なところとかがたくさん見えてきて、考えこんでしまうことだってあります。
工藤先生のお話の中に、こんな言葉が出てきました。「コンプレックスもまたその人の財産になることがある」というものです。
私は、よくわからないけれど「コンプレックスというものは、絶対的に悪いものではなくて、それがその人の大切なものになることがある」ということなのかなと思いました。
最近わたしは、よく自分の将来のこととかを考えるようになりました。
何の思いもなく生きていくのではなくて、何かの思いをもって生きていきたいと思いました。今日は、いろいろな人の経験談を聞けて良かったです。これからの参考にできます。
最後に考えたことは、今日の講演のテーマのことです。テーマは「たいせつなきみ」でした。工藤先生は私達に何を伝えたかったのでしょうか。私は気がついたことがあります。
それは工藤先生が話すのはほとんどが自分についてのことで、そしてそれは目に見えることではなかったのです。だから工藤先生から私に伝わったのは、「今の自分と向き合って自分の生き方について、大切に考えてほしい」ということです。
今日のお話を聞けて本当に良かったです。
二、子供の感性
これらの感想文の多くは、中学一年生、つまり、私が話しに行った時期にさかのぼる半年前までは小学生だった子供たちが書いたということになお驚かされる。
そこで私は、前回述べたように、子供ほど本質的、根源的なものに対する感性が鋭く、純粋でないかということをもう一度ここで考えてみたいと思う。
P・トゥルニエの『人生の四季』(ヨルダン社)の中に、次のような注目すべき言葉がある。
「フロイト以前には、大人は子供の心の驚くべき豊かさを全然知りませんでした……中略……。自分では子供たちに隠しおおせたと思いこんでいることが、もう全部子供たちには分かってしまっているのだということを親たちが知ってくれたらと、思います。見た目には無邪気で無頓着そのものの子供たちが、その実、家庭内で起こるいっさいのことにちゃんと気付いているのです……葛藤、たくらみ、欺瞞、うそ、嫉妬、虚栄心、それからしばしば黙ってなされる犠牲などが、この家庭という小宇宙の生成発展を決定しているのかということもよく知っているのです。一番うっかりしているのは、実は親たちの方なのです……。(以下略)」(26、30頁)
そして「詩人の言葉でもって人生を理解している子供たち」に接するには、「大人自身が自由でなければならない」と主張する。
次いで子供は感性において大人よりもすぐれた存在でないかということを、トゥルニエはやはり『老いの意味』(ヨルダン社)の中で次のように述べる。
「子供は大人よりすぐれている。それはきっと子供の方が自然に近いからだ。彼らはまだ文明に汚染されていない」(110頁)
この背景には、幼少期に父や母に死に別れ、たった一人の兄もなくなって一人の牧師の所にひきとられたジャン・ジャック・ルソーのことが語られている。
幼き日のルソーは、くるみの木を育てるためにひそかに秘密の地下水の小道を作るのだが、牧師のつるはしの一撃でこわされ、こっぴどく叱りつけられてしまうのである。しかし、その動機ははるかに大人より正当なもの、純真なものだったのである。(同頁)
このように考えてみると、私たちが大人になるということは、何か本質的なもの、根源的なものから、鈍感になるという側面を持っているのではないだろうかと反省させられる。
それゆえ私たちは、時々立ち止まって、子供の感性の方こそ、より正確に事態を読めていると思うことも必要であり、子供の心により多く教えられる必要もあるのではないだろうか。
そこで、トゥルニエは、また次のように言うのである。
「今日多くの親たちにまだ欠けていることは、自分の子供をほんとうの人格として扱うということです」(28頁)