時代を見る眼288 経済から福音を考える [3] 共に生きるために

日本メノナイトブレザレン教団
福音聖書神学校 教務
石橋キリスト教会 副牧師
南野浩則

申命記15章11節に「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない」とあります。それは「共同体に属する者を飢えさせない」という神の価値観の表明と解釈できます。初代教会はこの理念を教会の枠を越えて拡大して、新たに共同体を建設していったと考えられます。かつて「神の民」には生活共同体としての性格がありました。一方、現在では教会と社会との接点はほぼ伝道に限られ、ときに政治に関心を寄せる人々がいても、経済が広い意味で議論されることはありません。主が私たちの生活のすべてを支配していると告白しつつも、経済の議論は避けられてきました。
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震災の経験、エネルギー資源確保の議論、人口減少などの社会問題が進行する中で、人々はそのような課題を具体的に考えざるを得ない状況に追い込まれてきました。社会や経済が“うまく”回っている時代には、多くの人々は自分のことにだけ関心を寄せていました。社会の動きが個人の生活を直接に脅かすように思われるようになり、経済・社会への関心が増したと言えましょう。でも、それにどのように取り組んで良いのかわからずに人々は迷走しています。キリスト者も同じかもしれません。キリスト者の社会や経済への意識が高まったとしても、その意識が福音理解と結びつくことがない、あるいは結びつけ方が分からない、そのような現実があります。結果、教会も個々のキリスト者もこの世界に翻弄されてしまっています。
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冒頭の申命記の言葉は、行わなくても責任が問われないチャリティーの勧めではなく、実現されるべき神の意志として記されています。その目標は「人々が共に生きる」ことであり、福音の重要な内容です。教会がこの神の意志を真剣に理解し、自らの働きに位置づけるならば、経済の課題に教会は取り組むことになります。「共に生きる」には生活物資の分かち合いが不可欠だからです。教会がこの世界に神の意志を実現しようとする限り、経済への取り組みは必要になります。その方策は時代・場所によって変わりますが、神の経済へのビジョンは聖書に変わらず記されているのです。