リレー連載 ことばのちから 第11回 「パン、パン、パン」自閉症H君のことば

今日、「ことば」そのものがもつ意味が薄くなってきているのではないでしょうか。そんななか、「いのちのことば」という名を冠する雑誌としても、その「ちから」について改めてご一緒に考えていきたいと思います。第11回目は、同志社大学社会学部教授の木原活信先生です。

「天は神の栄光を語り告げ/大空は御手のわざを告げ知らせる。/昼は昼へ話を伝え/夜は夜へ知識を示す。/話しもせず 語りもせず/その声も聞こえない。/しかし その光芒は全地に/そのことばは世界の果てまで届いた。」(詩篇19・1―4)
「パン、パン、パン!」。数年前にある重度の知的障害児のH君が私に発したことばである。彼は、自閉症と知的障害があり、「普通に」コミュニケーションをとることはできない。青年になった今も発語はわずかな単語にすぎない。
H君を連れて、時々、手作りパン食べ放題で有名なサンマルクのレストランに行くことがあった。彼は、そこで、店員が出来たてパンを籠にのせてテーブルまで持ってきてくれて、それを自分で選んで「パン、パン、パン」と言いながら食べるのが大好きであった。この日も、彼はお腹一杯、大好きなパンを食べて満足したようである。
その翌日のことであった。ある障害児施設で私は役員をしている関係で、そこに行く用事があった。その日は、施設の監督業務にかかわる難しい事案のため、少し気が重たく憂鬱であった。H君はその施設の卒園生であるが、その日はたまたま一時利用者としてそこに来ていたようで、ちょうど帰ろうとするところであった。私は彼がその日にそこにいることは知らなかったので少し驚いたが、彼は玄関先で私の顔を見るや否や、近寄ってきて開口一番「パン、パン、パン」とニコニコと満面に笑いながら、私の顔(ひげ)を触って、そして私の手をパチーンと叩いて元気よく帰っていったのである。

周囲にいた職員は、私と彼の関係を知らないし、彼の突然の行動が意味不明で、その行動を制止しようしていた。職員からすれば、見知らぬ人に奇声を発して、顔を触ったりしたので、「失礼」な態度ととられたのかもしれない。
しかし私には、事情がよくわかった。つまり彼のことばと行動を翻訳すればこういうことである。「おじちゃん、昨日、僕をサンマルクに連れていってくれてありがとう!おいしかったよ、あそこのパン。また連れていってね。バイバイまたね」。だいたい、こんな感じであろう。
私のなかで、その「ことば」が妙に響いた。そして不思議な喜びに包まれ、うれしかった。どんな表面上の挨拶や感謝のことばよりも、「パン、パン、パン」ということばが印象的で深い意味を帯びていたからである。期せずして施設の監督業務での私の重たい暗い気持ちは、一瞬で晴れ渡っていることに気づいた。

「パン、パン、パン」ということば。聞き手がよく注意しなければ、意味のない奇声と捨て置かれたであろう。あるいは「パン」という単語はわかっても、意味のない単語の羅列であるとされただけかもしれない。しかしその背景がわかれば、聞き手が相手をよく理解して、耳を傾けて聴けば、その短いことばは、私のなかで「受肉」し、豊かな意味を帯び、そして暗い気持ちをも明るくする十分な力をもっていた。

ことばは深く重たい。対話となればいのちがある。ことばは人を傷つけることもあれば、人を癒やすこともある。半世紀も前になるが、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」(沈黙の音)という世界的なヒット曲がある。その歌詞に、ニューヨークの都会の喧騒で、ネオンを神として拝みながら、都会の人々が聴くことなく聞き、話すことなく話しているような寂しい情景が出てくる。それを「預言者」が批判するというような歌であったと思う。
まるで現代の日本社会を暗示しているようである。確かに人々は他人の話を聞いているように見えるが、本当にじっくり他者の話に耳を傾けて傾聴しているだろうか。対話として、本当に互いにことばを交わし合っているだろうか。確かに礼儀正しく挨拶しているかもしれない。頻繁にネット上でしゃべっているかもしれない。情報交換は昔よりも早く効率的であるかもしれない。恋人同士も今もどこかでLINEをしているかもしれない。
しかし、そこには本当の対話があるのだろうか。ことばの重みと深みがあるだろうか。ことばにいのちがあるだろうか。ことばが私たちに本当に「受肉」しているだろうか。
H君が投げかけた「パン、パン、パン」ということばは短い味気のないことばのように見えるが、受け取り方次第では、実はなんと味のある「受肉」された深いことばであっただろうか。どんな長いことばよりも、それは人の心をつかむものである。