書評Books 辺境の地から見えるキリストの王国

日本同盟基督教団 横浜上野町教会 牧師 柴田智悦

『「筑豊」に出合い、イエスと出会う』犬養光博 著
B6判 1,600円+税 いのちのことば社

石炭から石油へのエネルギー転換によって、福岡県にある筑豊の炭鉱は次々と閉鎖した。最末端ともいえる小炭鉱、零細炭鉱の谷間には、失業と貧困にあえぎながら必死に生きている人々と笑顔を絶やさない子どもたちがいた。東京オリンピックと高度経済成長に沸く日本の現実が、そこにもあった。
この本は、一九六五?二〇一一年の四十六年間、その閉山炭鉱地区に暮らす人々と生活を共にした犬養光博牧師が、自らも人々の「貧しきうれい、生くるなやみ」を「つぶさになめ」る中、筑豊の一隅でイエス・キリストに出会った真実な証しである。さらに、犬養牧師の働きは宣教の拠点である福吉伝道所を越え、カネミ油症抗議のための四十二年間にわたる座り込み、在日朝鮮人戦後補償問題、日韓民衆和解、被差別部落や沖縄、海外の差別・人権運動へと広がる。それはあたかも「しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし」キリストご自身の足跡を辿るかのようだ(「馬槽のなかに」『教会福音讃美歌』九八番)。
こうして、辺境の地からキリストの王国を見つめ続けた犬養牧師の教会論に目が開かれる。筑豊の人々は奉仕や宣教の「対象」ではなく「主体」であり、すでにそこで働いておられる「キリストの業に筑豊の人たちといっしょに参与して驚きたい」(一四〇頁)。「教会は、宣教する場所ではなく、イエス・キリストの出来事が起こっている場所である」(六〇頁)。ともすれば内面化し、自教会中心主義に陥りがちな教会の、すぐ外に問題があることが指摘される。
良きサマリア人の譬の「教会は、レビ人や祭司ではなくて、むしろ強盗の位置にいたのではないか」(一二一頁)との解釈は、日本の教会の戦争責任に対する、これ以上適切な表現を知らない。かつて東南アジアの地で、私自身の中にある差別意識に気づかされたことを改めて思い出した。教会の外に出て、そこに身を置くときにこそ、思索して祈るだけではわからない、一人の「人」との出会いがある。
キリストの体に属するすべての人に薦めたい。