リレー連載 牧師たちの信仰ノート
中台孝雄(なかだい・たかお)
日本長老教会・希望キリスト教会牧師。
hi-b.a.(高校生聖書伝道協会)代表役員。
第十二回 「主の導きの軌跡」③
できれば生涯続けたかった高校生伝道から離れた私に、特にやりたいことはありませんでした。ですから、「自分からは何も選びません。あなたが私を用いたいとお思いになり、何かお命じくだされば、それを一生懸命やります。何も命令がなければ、自分の好きなように生きます」というのが、当時の気持ちでした。(そして、今でもその気持ちはあまり変わっていません。決して人に勧めることのできる生き方ではないのですが。)
地域教会の牧師としては、今に至るまでコツコツと、可もなく不可もなく、でもそれなりに真剣に心を込めて続けてきていると思いますが、今回はこの面には触れません。
日本福音同盟(JEA)との長年の関わりも、偶然というか、私の選んだことではありませんでした。私の奉仕していた地域教会が所属する教派では、JEAの担当は他の先輩牧師でしたが、総会を目前にして病気になられ、急きょ、私が代理で行くようにと求められて参加したのが、関わりの最初でした。そして少しずつ関係が進み、援助協力委員会(当時は救済委員会)で長年委員を務めるようになり、理事として何期も奉仕させていただく形になりました。
教会学校教案誌『成長』で、あちらを書き、こちらを書きと(自分では「隙間産業」と称しているのですが)執筆を続けてきましたが、これもきっかけは『成長』編集部から「だれか執筆者を緊急に紹介していただけませんか」と、ある牧師に電話がかかってきたときに、たまたま私がそこに居合わせただけのことからでした。何冊かの本の翻訳にも関わらせていただきましたが、これもきっかけは、私が英語ができると勘違いした、すぐ書房の故・有賀寿先生から「この本、訳してごらん」と声をかけられたことです。
その都度、自分にできる精いっぱいのことをしてきたのは確かですが、どれも自分で選んだり、「やります」「やりたい」と名乗りをあげたりしたことではなく、主なる神が私に「これをやれ」ともってきてくださったことでした。
そのようにして、二十代のことは遠い思い出になり、一地域教会の牧師として素朴に生きていた私に、hi-b.a.(その頃は、表記も小文字になっていました)から「宗教法人としての責任役員会の一員にならないか」との連絡が入りました。高校生伝道から離れてすでに四半世紀、二十五年も過ぎ、地域教会の牧師として、超教派の伝道団体であるhi-b.a.とは礼儀正しい関わりをもってはいたものの、個人的な接触はなく、自分の心の中で過去の思い出として仕舞い込んでいたことでした。現役のスタッフたちのこともまるで知りませんでした。
声をかけてくださった、当時の代表役員であった故・吉枝隆邦先生に「どうせ戻してくださるなら、もっと若い時に現場のスタッフとして戻してほしかった」と無茶なことを言ったのですが、それは厚かましくも、主なる神に対するヨナのような不平でもありました。そうは言っても、あのときはあれで限界だった、あれ以上続けることはできなかった、とは自分でもわかっていました。
何人かの先輩の牧師たちに相談し、「召されていると判断するなら、やりなさい」と諭されてお引き受けし、いきなり代表役員として(地域教会の牧師という立場での外部奉仕としてですが)二十五年ぶりに戻ることになりました。
四半世紀ぶりに戻ったhi-b.a.で、集会活動やキャンプなどの折々に顔を出すようになると、私がスタッフだった頃の高校生たちの子どもによく出会いました。考えてみれば二十五年という歳月は、高校生が大人になり、結婚し、子どもが生まれ、その子どもがちょうど高校生になる年月でした。ですから出会って当然なのですが、スタッフを離れて以来まったく連絡をとらず、消息を知らなかった高校生たちの子どもに会わせてくださったのは、主なる神があわれみによって与えてくださった“ビギナーズラック”だったのでしょう。代表役員として十数年経った現在では、そうした「特別サービス」の出会いはほとんど尽きました。
私たち伝道者は、神に仕えるしもべです。時には自分の願うところではない場所や働きに遣わされます。神は、私たちの内にある、何かに惹かれ、何かにしがみつく心のあり方を知っておられるので、強引に人事異動を発令なさることもあります。けれども、私自身の人生に与えられた導きの軌跡を振り返って、結局はそれでよかったのだな、そう懐かしく思い出します。そして、生きているかぎり、導きはこれからも続くのでしょう。
「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」
(詩篇37・5)