けっこうフツーです 筋ジスのボクが見た景色 第9回 死が最も近づいた瞬間
けっこうフツーです筋ジスのボクが見た景色
黒田良孝
(くろだ・よしたか)
1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。
二十四歳からは病との闘いに費やされました。終わりの見えない闘いに疲弊しきって徐々に弱気にはなっていましたが、自立生活の継続に迷いはありません。周囲の医療関係者から「心臓や呼吸の機能が衰えているのに、どうして実家に帰って、親に面倒をみてもらわないのか」と言われても、私としては実家に帰るという選択肢はありえませんでした。
どうして自立にこだわるのか、そこにはいくつかの理由があります。まず第一に、その頃家族は千葉に転居していましたから、当然住み慣れた東京を離れなければなりません。第二に、仕事も自立した生活も全て捨てなければならず、人脈もない見知らぬ土地に移っても、やることがありません。
そして何より東京に住んでいるおかげで受けられた二十四時間の介護保障がなくなり、ヘルパーに生活の支援をしてもらえなくなります。それまでの活動と自由な暮らしは、ヘルパー制度があって初めて実現できるものでした。
また、家族と暮らせば介護の負担は家族に重くのしかかります。そのため、実家には戻らず最後まで自立生活を貫くつもりでいましたが、筋ジストロフィー症の進行はそれを許してくれませんでした。
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呼吸機能が弱ると気道からの感染リスクが高まります。そのため冬場は頻繁に風邪を引き、入院しました。半ば冬の恒例行事となりつつあった入院ですが、二十七歳の入院中に事件は起きました。真夜中の出来事です。その夜は母が病室に泊まり込みで看病してくれていました。就寝後のことなので記憶にはありませんが、気管に痰を詰まらせ窒息してしまったのです。
当然のことながら血中酸素濃度が低下して、指先に着けたモニターがナースステーションに異常を知らせます。看護師が駆けつけましたが、もうその時には呼吸に加えて心臓も停止していました。私の顔色は、目撃した母の表現によると土気色というよりは灰色でお地蔵さんのようだったそうです。
すぐに心臓マッサージが開始され、気道確保のための気管内挿管が行われました。挿管とは、口または鼻から喉頭を経由して「気管内チューブ」を挿入することで、私の場合はそれに人工呼吸器をつなぎました。突然だったこともあり、処置がなかなか上手くいかなかったようですが、きわどいところで命をとりとめたのです。私が意識を取り戻したのは翌朝のことでした。夜中の出来事を知ったのはそれから少し後のことです。
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命が助かって安堵しましたが、新たな試練が与えられます。健常者の場合は呼吸機能が回復すればチューブを抜くだけで済みますが、筋ジストロフィー症患者の場合は後戻りができず気管切開に移行します。
喉を切開してチューブを挿し、直接人工呼吸器をつなぐのです。手術自体は簡単なものですが、手術後は気管の痰吸引などの医療行為が必要になります。その当時はヘルパーによる吸引が法的に認められていなかったので、気管切開をすれば退院しても自立生活に戻ることができません。最も恐れていた事態でした。
以前から夢に描き、誇りをもって続けていた自立生活が消えた瞬間です。ショックに打ちのめされました。「どうして自分だけが」との思いがぬぐえず、自ら命を絶ちたいとさえ思いました。信仰が心の支えになるはずの時にも失ったものを数えてばかりで神様を恨んでいたのです。それまでに頂いた恵みのことは忘れて。
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千葉への転居に伴い、所属教会は国立教会から千葉教会になりましたが、教会から離れて久しい私にとっては遠い場所です。まして外出がままならない環境です。
しかし、孤独な在宅生活をしている私と家族を気遣い、牧師先生や教会員の方が訪ねて来てくださいました。引きこもりが板について外部の人との接触に煩わしさを感じる反面、私のことを忘れず祈ってくれるクリスチャンがいることに勇気づけられ、とてもうれしかった記憶があります。
キリスト教への回帰はそれからずいぶん先のことになりますが、神様は必要な布石を打ってくださっていました。