折々の言 20 「沈黙」に裏打ちされたもの

花
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

一、黙想のすすめ

 以前私は、この連載の中で信仰者の「多弁」は宗教性の喪失だけでなく、文化の浅薄さ、衰退を意味しかねないこと(7月号)、安易な「言語化」つまり概念化は人と神とをパターン化し、その神秘性や創造性を危うくする側面があるという話をしたことがある(2月号)。

 この点、スイスの精神医学者、P・トゥルニエのたどった心の軌跡は示唆的である。

 彼は、すぐれた臨床医、神学者、キリスト教思想家として深い人間理解と洞察の書を表し、生涯おびただしい数の講演活動をした人物であるが(1977年来日)、彼は晩年、自分の仕事のほとんどは、朝の「黙想」「瞑想」から生まれたと言っているからである(『人生を変えるもの』山口實訳 ヨルダン社 138頁)。

 つまり彼は「多弁」や「多動」ではなく、沈黙と沈潜をその働きの源泉とした人物のように思われる。

二、自分自身の貧しさの発見

 この方法に触れた折、彼は自分の内面の行き詰まりに直面していたころのようである。つまり、第一次世界大戦たけなわの頃、国際赤十字や戦災孤児の救済に奔走し、教会活動にまで手を出しつつ、彼の内面は閉ざされたままで、教会内の活動もその人間関係も、果ては、妻との関係も一方通行的なものであったという。そしてその本によれば、彼は「妻をとても愛していたし、仲はよかったが、その妻に対して私のする話といえばいつも理論的内容のもので、いわゆる客観的知識を教えることでしかなかった」と述べている(170頁)。

 しかし、二人で黙想するようになってまもなく、彼はズバリ、自分の問題を言い当てられる。つまり、「あなたは私の先生。私の医師。私の精神科医。私の牧師ですらあるかもしれません。でも私の夫ではありません……」。

 そしておもしろいことに、こうした苦い経験の後、「急に患者たちがそれまで話さなかった秘密を打ち明けてくる」体験をするようになっていくのである。人々は、彼が、病気のことだけではなく、人間そのものを大切にするようになったのを敏感に感じとったためらしい(170頁)。

 とはいえ、彼はすぐに、またすんなりこの黙想の有効性にたどりついたわけではない。

 神の声とはいっても、しょっちゅう聴き間違えたり、自分の考えを神の声にすり替えることはよくあったし、意味あり気な発想は何一つ思い浮かばないこともよくあったという(135、171頁)。しかし彼は40年間この朝の黙想の生活を続けたのである。

三、実際の場で

 私がこうしたことに関心を持ち出したのは、言うまでもなく私自身が年代的に「動から静」の生活に移行してきたために違いないのだが、私が出入りし、多少なりとも見聞きしてきた今日のキリスト教界の宣教なるものが、果たして本当にキリストを証しし、キリスト教を深めてきているのかという点に、少なからず疑問を抱き始めたためである。

 前者について言えば、確かに3年程前まで私は東京の神学大学で教えるために約10年間、毎週のように東京と大阪間を往復する生活を繰り返していたが、この一、二年でとてもとてもそんな生活は考えられなくなってきたから、体力の衰えは決定的な事実であることに変わりはない。

 それ以上に長年私のキリスト教界へのこだわりを振り返ったとき、案外深く心に留まり、その余韻なり、影響なりが私に後々語り続けた言葉は少ないのではないだろうかと思い始めたからである。

 つまり、すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる(小泉信三)という言葉は依然として事実であり、深い「沈黙」に裏打ちされた「ことば」こそ、ことばらしいことばではないかと思えるようになってきたのである。

 このように考えてみると「黙想」「瞑想」「思いめぐらす」という心の作業は、ことの他、大切なもののように思われる。

 H・ナウエンは実存主義者ハイデガーの言葉を引用して、現代社会の危機を次のように言っている。

 「人間は数値化するという思考で最高レベルに達し、大いなる発展を遂げたとしても、内省することに無関心になり、まったく考えることをしない人間になってしまう。……これは、思い巡らすという、もっとも人間らしい能力を放棄してしまうことだ。人間の本質が危機に瀕している。私たちの内省的な思考(das Nachdenken)が、存続の危機に瀕している」(『明日への道』 H・ナウエン あめんどう 199頁)。

四、宗教生活と実生活の架け橋

 またトゥルニエの『生の冒険』(ヨルダン社)の中に次のような指摘がある。

 「教義に関しては忠実で、信仰に関しては熱烈でありながら、宗教生活と実生活との間に必要な橋を架けることができず、たいへん苦しんでいるりっぱな、学識高い神学者たちがいる。私の経験では、瞑想を書いてみることは、信仰の世界と現実世界の間の橋を架けるのにたいへん役に立つ。…(中略)…。この沈黙はとくに霊的礼拝、交わりであり、魂の飛躍また同一化である。瞑想を書きつけることは祈りや礼拝の代用にはならないが、宗教的生活の富を私たちの現実生活の中に統合させるための実際的役割を果たす」(259頁)。

 宗教(religion)とは本来、再び(re)結びつける(ligion)を原義とするものと考えると、この視点は非常に大切なもののように思われる。というのは、「信仰は私たちをこの世から外すことではなく、信仰はむしろ私たちをこの世に関心を持つようにと招くものだからである」(245頁)。

 トゥルニエにとって、私たちのすること、考えること、感じることすなわちすべてを通して、神の冒険に入ろうとすることこそ、人生の意味に他ならなかったのであろう(281頁)。

 多弁や多動、またまちがった自由が、喧噪の域に達し、必ずしも人間の品性を高めないことが明らかになりつつある時代に、「静まる」「黙する」という一つの世界が、私たちの前に開かれているという事実は、驚くべきことのようにも思われる。ハバクク書は「全地はその御前に沈黙せよ」と伝えている。