信じても苦しい人へ 神から始まる新しい「自分」第15回 信仰と葛藤2 〜やりがいを求めると、つらくなる!?〜

中村穣 (なかむら・じょう)

2009年、米国のウエスレー神学大学院卒業。帰国後、上野の森キリスト教会で宣教主事として奉仕。2014年、埼玉県飯能市に移住。飯能の山キリスト教会を立ち上げる。2016年に教会カフェを始める。現在、聖望学園で聖書を教えつつ、上野公園でホームレス伝道を続けている。

 

求めるものが手に入らないと葛藤します。私たちは“やりがい”を求めて生きています。それゆえに、私たちの目線が神様以外に向いてしまうことが多いように思います。私が現代の問題として感じているのは、やりがいの先に“生きがい”を見いだそうとしていることです。やりがいの先に、生きがいはないと思います。本質的にやりがいの先に神様はいないからです。私たちの葛藤の原因はここにあります。このことを踏まえて、二つのことを見ていきたいと思います。

 

電車が五分遅れただけで、イライラしてしまうことがあります。失敗するとわかっていることにチャレンジすることも嫌います。どうせできない、時間の無駄だ、何の良い結果も出ない、意味がないと思ってしまいます。だから失敗しないように、どう無駄なく生きられるかと考えてしまいます。やりがいばかりを求めていると、結果主義になります。結果を出すために最短距離をとることを優先してしまいます。

問題の一つ目は―
最短距離を求めては神様の愛は伝わらず、わからない。

あるとき、私は実験をしました。いつもスーパーに行くと戦闘態勢に入ります。どのレジが一番早いかと探り、並んだレジが他より遅いとイライラしていました。そこで、早くレジを通るという目的を捨て、わざと一番長い列に並ぶようにしました。店員さんから「こちらへどうぞ」と言われても断りました。ゆっくりとその時間を過ごすことに思いを切り替えてみたのです。すると、心がすごく晴れる体験をしました。最短距離を生きることがどれだけ当たり前になっていたかに気がつきました。

最短距離で行こうとすると、実は十字架が見えなくなります。イエス様は、痛む人と共に痛み、涙の人と共に涙し、人々に裏切られ、十字架につけられ、黄泉にまで下ったお方です。その歩まれた道は最短距離ではありませんでした。私たちも人を愛そうとするとき、最短距離では愛せないのです。「どうせあの人に言ってもわからない」と、話すことをやめてしまう。それでは愛は伝わりません。神様の愛を伝えるとき、相手にわかってもらえないと思っても時間をかけて話し、無駄だと思っても思いやりをもって話を聴く必要があります。「こんなに話したのにどうしてわからないのか」と思っては、相手に思いを伝えられません。最短距離では人を愛せませんし、神様を愛せないのです。

問題の二つ目は―
目的を達成することを優先してしまい、神様に従えなくなる。

たとえば、神様が東京の池袋にいるあなたに、上野に行く山手線に乗りなさいと言ったとします。従順なあなたは、山手線のホームを調べて電車に乗ります。上野に行くという目的をしっかり握って途中の駅の数を確かめました。途中の日暮里に着いたとき、苦しそうなホームレスの男性がいました。あなたは降りて助けようかと思いましたが、思いとどまります。上野に行くという目的があるので、途中下車はできませんでした。上野に着き、神様と出会いました。神様はあなたに言います。「どうして日暮里で降りなかったのか。わたしはホームレスのおじさんに会わせるために、上野行きの山手線に乗りなさいと言ったのに。」

目的意識を持っていると、立ち止まれなくなります。神様に従うとき、どうしてそれをするのか、もっと効率のいい方法があるのではないか、と思うことがあります。しかし神様の計画はあなたに寄り道をさせ、人と出会わせ、神様の愛を伝えるという時もあるのです。(使徒八章で、神様はピリポにエチオピアの宦官に会えと言ったのではなく、ガザに下る道に出よと言いました。)その場合、計画を邪魔するのは目的意識なのです。神様が止まれと言っているのに、先に行くという思いに支配されてしまいます。

神様はやりがいではなく、生きがいを私たちに与えようとしています。国語辞典にやりがいは「物事をするときの張り合いや達成感」、生きがいは「人生の価値」とあります。本当の生きがいは、やりがいの先にはありません。人生の価値は神様から受け取るのであって、達成感の先にはないものです。やりがいを積み重ねて達成感を得ることはできても、生きる価値を得ることはできないのです。

また、私たちがやりがいを求め、最短距離を生き、結果を求めていると、十字架の道を歩めなくなります。というのも失敗しないように、苦悩がない道を選ぶようになるからです。痛みを知らないと十字架はわかりません。十字架は痛みだからです。解決策ではなく、痛みに寄り添うのが十字架の道なのです。

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