折々の言 最終回 凛として生きる

花
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

一、安易な励まし

 臨床の世界でよく問題にされる一つのテーマに、「安易な励まし」という項目がある。「この病気は治るでしょうか」という病者の必死な、あるいは切実な問いかけに対して「大丈夫ですよ」とか「必ず治ります」などという言葉をいとも簡単に弄することである。

 問われた方はそうとしか答えようがないので、とっさに無意識的に答えてしまうことが多く、それこそ善意以外の何ものでもなく、一応許されはするが、しばしば、そういう問いかけをする時、人はもう既に自分の病気のただならぬことに十分気付いているはずで、そうした答えは実は無責任にもなりかねないというのが、その主たる問題点である。

 ではそうした折、どのような言葉かけがふさわしいのだろうか。

 次の文章は「伴侶の死」をきっかけとして「うつ病」に苦しめられた気象学者が、その若き日に結核に冒されたとき、一人の恩師から得た言葉の一つである。

 ――そんなとき、私の恩師で、当時の中央気象庁長官、日本学士院長を歴任された和達清大先生から、こんな言葉をいただきました。

 「冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、君は今人生で『遅れ』をとったのだ。たぶん、それはいつまでも君の人生につきまとうだろう。人はそれぞれに、いろいろな不利の条件がある。君には、その条件が、今新しくできたから、不幸と感じるかもしれないが、不利は不利として、敢然と背負いこむ以外に道はない」。禍転じて福となるなんて思わないほうがよい。辛抱とは、そういうものだ」。

 和達先生はご自身も肺結核で死線をさまよった経験をお持ちです。その突き放したような表現に、私はかすかな爽快感を覚えました。どんな慰めの言葉より心に残っています。

 がまんして通り抜ければ、先に報いがあると保証されての辛抱は、辛抱なんていうものではない。行く先に何のあてもなくても、この道以外にないと観念して、ひたすら耐えて歩みつづけるのが辛抱というもので、もしかしたら、一生、それで終わることのほうが多いのかもしれません。(『やまない雨はない』倉嶋厚 文芸春秋社 79頁)

 私が注目したいのは、「不利は不利として、敢然と背負いこむ以外に道はない。禍転じて福となるなんて思わないほうがよい。辛抱とは、そういうものだ――」という言葉と、「その突き放したような表現は、どんな慰めの言葉より心に残っています」という表現である。

 人間は希望の存在だから「なんとかなる」と思い、それこそ聖書が言うように「万事が益となる」と信じて人は希望に生きられるのではないだろうか。(ローマ書八章)

 とりわけクリスチャンと呼ばれる人々は、上記のような御言葉を時として軽々しく弄して当事者の苦しみをどこか傍観するようなこともあるのではないだろうか。

 しかし、そうした捉え方、考え方ばかりするとそうした価値観が優先してしまい、厳しく、いかんともしがたい人生の現実が一方に厳然としてあるにもかかわらず、結果的には、それと向き合うことを困難にするのではないだろうか。

 例えば、一人の宗教学者は、現在の「癒し」ブームに対して、「癒し」は「イヤシイ〔卑しい〕」ニュアンスがあると指摘したが、恐らくこれは浅ましい私共の人間的願望充足という意味で、使われたものであろうが、この流れは一時ブームになった「カウンセリング」という言葉がもてはやされた頃から、内心私がずっと危惧してきたことでもあった。

 人間が生きることはそれ程楽であり、楽しいものだろうか。また人生、そう安々と順調にいくものだろうか。

二、「人生」を引き受ける姿勢

 日本語には「凛として」という素晴らしいことばがある。辞書を引くと(1)寒気のきびしいさま、(2)容貌、態度のりりしいさまとある。私たちが人間に深い品性を見たり、深い共感を感じたりするのは、案外そういう空気なのかもしれない。

 とすれば、人間の本来性は、ただいたずらに幸福になることを求めるだけでなく、不運や不幸と見える中を、どういう姿勢で生きているかという姿勢の中にあるもののようにも思われる。

 もちろん、私たちは人生の不条理に対して無力なものだし、本来臆病な者に違いないから、「凛として」生きるなどという姿勢は当面望むべくもない存在にちがいない。

 しかし、しばらくの失意、しばらくの深い失望の後、また様々な逡巡の後、「これもまた私の人生」と引き受けて、しっかりと自分に与えられた生を生きるのも、一つの勇気ある決断ではないかと思う。

 次のような内容の断想がある。

 これが私の人生
 才能、境遇、出会い、運、その他を、有無を言わさずに負わされて、私達は生きています。努力の大切さは言うまでもありませんが、人生にはどう仕様もない面が始めからあるのです。責任を負わねばならない部分はもちろんありますが、負いようのない部分が決定的に大きいのが人生です。人生にあまり深刻に責任を感じないこと、それは、負う必要のない責任まで追い込もうとする傲慢ですから。とにかく生き抜くこと、そして「これが私の人生」、と肯定すること、それが人生への謙虚です。自分の人生を否定的に見るのは自惚れでしょう。(『福音は届いていますか』ヨルダン社 121頁)

 何事によらず問題解決志向の発想がもてはやされ、「人間らしい人間」を見ることが少なくなった時代に、主イエスの、「立て。さあいこう。見よ、私を裏切る者が近づいてきた」(マタイ26章)という御言葉は、私たちにどう生きるのかを問うているようにも思われる。

 また多くの悩み、苦しみの中に、その生涯を送った使徒パウロは「(私たちは)キリストを信じるだけではなく、苦しむことをも賜っている」と述べている。そしておもしろいことに人間の創意や工夫といった知恵はこの苦しみから生まれてきていることが多いのである。


花束

稿を終えるに当たって

 約2年間「21回」の連載を終えるに当たってこの「折々の言」を読み続けて下さった方々に改めに深く謝意を表したく思う。
 連載の道中、何度か「この一文によって励まされました」との感想をお寄せいただいた方々が少なくなかったからである。
 もとより2年前この連載を引き受けるに当たって加速度的に悪化する世界情勢や長引く不況の中で果たして読者になにか希望的なエッセイが届けられるのであろうかというとまどいが私の中にあった。
 しかし、振り返ってみるとその折々に記したように私たちのまわりに実は多く、思いを深め、目を凝らして追求するに価する課題が山積みしていることが分かる。主イエスは「目をさまして」また「目を上げて」よく見るようにと、再三勧めているが、私たちに注意力(大江健三郎)も生の吟味、信仰の思索に事欠かないということであろう。つまり神の再発見である。
 苦しいなりに、むずかしいなりにこの時代にこの生を与えた下さった神に感謝する次第である。
 この連載が書籍となり、今秋、何カ所かでその出版記念会がもたれることをお聞きしているが、会場でこの連載に共感して下さった方々にお会いできれば幸いである。