特集 クリスマスを待ち望む
クリスマスの時期を迎える十二月。今年のクリスマスは、どのように過ごしますか。
慌ただしい時期でもある十二月に、ひとり静かに、じっくりとイエス・キリストの誕生の意味を味わうため、クリスマスの説教をまとめた書籍から、内容の一部をご紹介します。
『私のたましいは主をあがめ
クリスマスの意味に関する黙想』抜粋
マリアの賛歌(ルカ1・46以降)についてのロイドジョンズによる四つの説教を収録した本書は、マリアが発している言葉とその意義をとおして、聖書の深みへと導いていく。いま一度、クリスマスの真の意味を教えられ、黙想するのに最適の一冊。
もしかすると、クリスマスの季節が近づく今の時期、何にもまして行なうべきなのは、この《マリアの賛歌》を考察することかもしれない。それどころか、私たちが《受肉》の意味をどのように理解しているか、また、この時期にクリスマスについて考えたり、祝ったりする一切合財をどのように理解しているかを探る最上の試金石は、このマリアの歌に対する私たちの反応だと言えると思う。(中略)
クリスマスの真の意味
この偉大な出来事―多くの点で、人類という種族が辿ってきた歴史全体の中心とも言える出来事―の真の意味が、あらかた覆い隠されていることは明白ではないだろうか。人々は、大きく分けるとクリスマスを次の二つのうち一つとして考える。ある人々は、この偉大な出来事を何かぼんやりとした一般的な感情に引き下げている。周囲の人々に善意をいだき、上機嫌になり、ぽかぽか幸せな気分になり、寄り集まってものを食べたり飲んだりし、親睦を深める機会としてである。それは、世間一般について言えば、クリスマスの意味に関して、多くの人々がいだいている考え方、とらえ方ではないかと思う。クリスマスとは、そのようなことを感じたり行なったりする時期でしかなく、それ以上のものではない。
しかし、そうは考えない人々もおり、やはり多数に上っている。そのような人々は、この出来事の中心的な目的が、人々に勧告を行なうことにしかないと考えているように思われる。人間の善意の精神を現実の行動に移すようにという勧告をである。この種の人々はクリスマスを、第一義的には平和のために活動する機会と見なしている。戦争と平和について語ることのできる機会、戦争廃止や軍備廃絶を求めて力を尽くすよう人々に訴えるために用いるべき機会、国家同士の友好関係を促進する機会、そして、その他の活動を行なうべき機会としてである。
そのように、現在世に広く行き渡っている意見は、いま述べたような二つの集団に分かれている。……もしもこれまでに、何をおいても思索を巡らす必要のある主題が一つでもあったとしたら、それは神の御子の誕生という、この大きな問題である。クリスマスは、人が頭を冷やして、真剣に、生死に関わる思考を行なう必要のある機会である。一年中のどのような時節にもまして、悪魔が人々を貧しくさせようとするのは、私たちのほむべき主の誕生を心に覚える、この特定の時期だからである。(中略)
神の行動
やはり明々白々なのは、クリスマスが全く神から出たものだということである。〈クリスマスとは、神が行なってくださったみわざ、また、いま行なっておられるみわざ、そして、これから行なわれるであろうみわざの告知にほかならない〉。
それこそ何にもまさる肝心な点であり、《マリアの賛歌》の中で際立っている点である。神が事を行なってくださった。神が御力を明らかに現わすであろう。それこそクリスマスが伝えている内容である。人間たちが行なうことになる何事かでも、いま人間たちが行なうべき何事かでもない。
否、否。――神が〈すでに〉行なってくださった何事かである。私たちに求められているのは、後ろに下がって目を凝らし、耳を傾けることである。このように福音書の最初に位置する数章が記す一切合財からして、それは分かるはずである。あの羊飼いたちを眺めてみよう。夜の野原でこの人々は、羊の群れの番をしている。同じ務めは、それまでも何百回となく、いや何千回も行なってきた。期待していたことなど全く何もない。だが突然その歌声を聞き、その告知を耳にし、注意を引きつけられ、上を見上げる。それこそクリスマスがやって来る次第にほかならない。
見ての通り、神は何事かを行なわれた。実際、事はすべて神から発している。《福音》は、神の強大な活動の大いなる記録である。御力をはっきり示す行ないである。ザカリヤが後ほど完璧に告げるように、この使信の本質はこうである。「[神は]その御民を顧みて、贖いをな(さ)……れた」(ルカ一・六八―六九)。
そのような見地から出発してクリスマスについて考え始めないとしたら、すでに誤っているのである。道を踏み外してしまっているのである。クリスマスは、私たちのもとにやって来る何事かであり、その何事かによって私たちは立って目を凝らし、頭を上げて、こう言うべきである。「私たちは耳を傾けています。神は何を行なってくださったのですか?」 それこそ事の要である! 神は何事かを行なってくださった。―神の活動、神の力ある右の御手の現われである。だから、事が全く、ただ神おひとりから出ているという事実は強調したいと思う。
それを今ひとたび次のように言い表わさせてほしい。《福音》は、決して最初は人間に何事かを行なうよう求めるものではない。それこそ現今のような《福音》のまがいものが登場する点である。あたかもクリスマスの伝える使信が、私たちに対する訴えかけでしかないかのように思われている。―「さあさあ、この季節の間は最良のあなたになりなさい。今の時期を利用しようではありませんか。戦争をなくし、平和をもたらすために、ともに行動し、努力しましょう」。―まるでクリスマスが第一義的には政治的なもの、人間が行なおうとしているもの、人間が明らかに現わし、実行に移さなくてはならない精神ででもあるかのようにである。
しかし、クリスマスはそのようなものでは全然ない! クリスマスとは、神が行なわれた素晴らしいみわざの一つを伝える告知である。聖書全体が、神の活動について告げる記録ではある。何と素晴らしい神のみわざであろう! ……クリスマスの使信は、神がそのひとり子というお方において行なってくださったみわざを宣言し、告知するものなのである。(本文より)
『私のたましいは主をあがめ
クリスマスの意味に関する黙想』
D・M・ロイドジョンズ 著
渡部謙一 訳
B6判 定価1,430円(税込)
『光を仰いで
クリスマスを待ち望む25のメッセージ』抜粋
クリスマスの出来事を、当時の人々の目、時代背景、聖書の記述、あらゆる角度で見つめ、キリストがなぜこの世にお生まれになったのか、その意味を味わうクリスマス説教集。十二月一日から二十五日まで、毎日ひとつずつ読める。
どのような状況下にあっても、喜びをもってクリスマスを迎えるための必読書。
12月2日
「待ち望む」ということ
聖書の中には「望む」、「希望する」、「待ち望む」ということが何度も繰り返し語られます。その一方で、私たちは希望をもって生きることの難しい時代を過ごしています。私たちの目の前に広がる現実、耳に飛び込んでくるニュース、足もとが揺さぶられる出来事、どこを見渡しても希望などありはしないではないか。どれだけ祈っても現実はちっとも変わらないではないか。むしろ世界はどんどん悪くなっているではないか―そんな思いが頭をもたげてきてしまうのです。
希望をもって生きたいと願いながら、むしろ失望が覆いかぶさってくる。どうせ失望するぐらいなら、最初から淡い希望など抱かないほうがいい。そんなあきらめの心がひたひたと広がってくる。闇の力の恐ろしさを思います。光のほうから私たちを引きずり込もうとする闇の力、私たちを虚しさ、失望、あきらめの中へと引きずり込んでいこうとする虚無の力が働いているのです。
そこで私たちが確認したいのは、私たちに与えられている「希望」とはいったい何かということです。そのことを明確に語る聖書のことばの一つに、旧約聖書の詩篇39篇7節があります。
「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。
私の望み それはあなたです。」
こう呼びかけることのできるお方、私たちを愛し、この世界を生かし、今日も良きみこころのうちに治めておられる生ける神を待ち望む。これが聖書の語る希望です。
待ち望む人々
ヘブル人への手紙11章1節は、このような希望をもたらすものが「信じる」という営みなのだと語っています。……聖書にはこの信仰に生きた人々、待ち望む人々が数多く登場します。……
この人々は望みに生きた人々、目に見えないものを確信して生きた人々であり、そのような生き方が信仰なのだと語ります。そしてこの「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」信仰に生きた人々の姿を、2節以下でつぶさに記していくのです。
(中略)
望んで待つクリスマス
福音書が記すクリスマスの出来事にも「希望する人々」が数多く登場してきます。その一人が、イエス・キリスト誕生の八日後の出来事を記すルカの福音書2章25節に登場する老祭司シメオンです。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」
(25~26節)
ここに信じて待った人の姿があります。シメオンが生きた時代はユダヤの激動の時代でした。他国の侵略があり、それへの抵抗があり、ついにローマ帝国の支配下に置かれ、数々の苦難を味わってきた年月でした。けれども彼はその苦難の日々、激動の日々を生きた、いや生かされたのです。
「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」ということばは、その時までは死ねないということです。時にはもうこれでいいと投げ出したくなる時もあったであろう人生でしたが、しかし彼は生きなければならない。シメオンにとって救い主を待ち望むことは彼の使命であり、人生そのものだったのです。そしてついに、今やその時が到来した。シメオンは幼子イエスを懐に抱いて言うのです。「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」(29~30節)と。
年老いた目で、かすみつつある目で、この地上の罪と悲惨の現実を見尽くしてきた目で、表面的なことに目を奪われることのない透徹した目で、この「私の目で」、彼は御救いを「見た」のです。……小さく弱い赤ん坊の姿の中に、しかしシメオンは神の救いの約束の実現を見た。まさにこの幼子が「主のキリストだ」と信じた。ここにはヘブル人への手紙の「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」という真理が鮮やかに示されています。
待ち望んで生きることは決して易しいことではありません。励ましがなければ、たった一人では希望をもって立ち続けることは到底できないことでしょう。
コロナ禍にあって、今も多くの人々が忍耐に忍耐を重ねる日々を過ごしておられます。健康の問題、医療の問題、経済の問題、家族の問題、仕事の問題、自分自身の将来の問題、夫婦関係、親子関係、友人関係などさまざまな関わりで、どれもこれもそう簡単に答えの出ない難問ばかり。教会の営みも同様でしょう。なかなか先行きの視野が開かれない、出口が見えない苦しみを味わい続け、一進一退を続けながら、本当に前に向かって進んでいるのかも時にわからなくなり、もうすべてを投げ出してしまいたくなりそうになることがある。「もういい」と全部放り出してしまえたら、どんなに楽になるだろうかとさえ思う―。
けれども、そのような私たちをなお支えるものがある。それが信仰であり、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものだというのです。
信じる世界は、希望の先取りの世界です。どんなに世界が暗く、どんなに先が見えず、どんなに闇の力が圧倒的に見えても、黒く立ち込めた雲の上には光が輝いているように、まだ夜の闇の中にも朝明けが近いように、希望がある。絶望を破る希望の光が到来する。それがクリスマスにおいて起こった出来事、神の御子イエス・キリストの訪れなのです。
信じて待つクリスマス。この主を待ち望む者の生き方。それは、その希望が失望に終わることのないことを神の約束によって確信し、それゆえにその祝福を先取りしているかのようにして喜び、慰め、励まし、希望をもつことのできる生き方です。
光の到来を待ち望みつつクリスマスに向かう日々を、「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。/私の望み それはあなたです」と歌い、告白しながら進んでまいりましょう。
(本文より)
『光を仰いで
クリスマスを待ち望む25のメッセージ』
朝岡勝 著
B6判 定価1,760円(税込)