ここがヘンだよ、キリスト教!? 第5回 自分の中に平和を生じさせる ヘンリ・ナウエン

徳田 信
1978年、兵庫県生まれ。
バプテスト教会での牧師職を経て、現在、フェリス女学院大学教員・大学チャプレン。日本キリスト教団正教師(教務教師)。

 

 

ウクライナで戦争が始まった二月末、この原稿を書いています。私はかつて東欧の街プラハで学ぶ機会を得たのですが、そのとき二人の若い学生と親しくなりました。ウクライナ人とロシア人でした。私たち三人は、流暢な英語を操るヨーロッパ人学生たちにどこか引け目を感じていたのかもしれません。授業の合間に集まってはコーヒー片手に、たどたどしく自分の国について語り合ったことを覚えています。今は名前さえ忘れてしまったあの二人、どのような思いで過ごしているのでしょうか。

先月は「信仰的な正しさ」をテーマに、神の愛に根差した振る舞いであるかどうか、それこそが判断基準ではないかと記しました。神の愛を受け止めて生きることについて、私たちは誰もが途上にあります。そして、そのように途上の歩みを続ける私の手引きとなってきた一人が、ヘンリ・ナウエン(一九三二~一九九六年)です。

ナウエンはかつてハーバードなど有名大学の人気教授でした。しかし神の愛をより深く、身をもって体験したいと願い、障がい者共同体ラルシュに生活の場を移しました。牧会心理学の古典的テキストとなった『傷ついた癒し人』や、時に赤裸々な表白を伴う晩年の著作群など、教派を超えて多くの読者を得てきました。

そのナウエンですが、実は平和問題にも取り組んでいます。六〇年代にはキング牧師の非暴力行進に連なり、七〇年代には核兵器を搭載した潜水艦の基地近くで平和を求めて説教しました。ラルシュへ移った八〇年代後半以降も、核実験場での座り込みに参加したり、湾岸戦争前夜のワシントンDCで一万人に反戦演説を行ったりしました。

「まるで社会活動家のようだ」「信仰者が取り組むことなのか」と眉をひそめる向きがあるかもしれません。しかしナウエンにとって平和の問題は深く信仰の問題と関わっていました。そのことは、ある種の平和活動に対して疑問を呈していたことに表れています。

「多くの人が平和活動に対して強く躊躇する理由の一つは、平和活動家自身が求めている平和を、その人たちの中に見出せないことにあるのです。しばしば目に映るものは、恐れと怒りを抱く人が、自分たちの抵抗の緊急性を他人に説得しようとする姿だけです。悲劇なのは平和活動家がもたらそうとしている平和よりも、戦いを挑んでいる悪魔の姿しか見えないことです」(ナウエン『平和への道』聖公会出版、九二頁)。

ナウエンは、真の平和は祈りによってこそ生じると確信していました。なぜ祈りなのでしょうか。それは私たち自身がまず、神の愛以外のもので心を満たすことから解放される必要があるからです。周囲の評価に思い煩い、人々に認められようと行動している限りは虚偽の自己に捕らわれていることになります。それは満たされていない愛の代償を求めている状態であり、そのしるしは鬱積する怒りです。

ナウエンは、平和活動でさえ怒りの発散手段となりうることに気づいていました。怒りから生じるのは平和ではなく暴力の連鎖です。暴力とは腕っぷしに訴えることだけではありません。萎縮させる言葉や態度、相手に耳を傾けず立場や数で押し通そうとする姿勢も含まれます。そこから戦争は遠くありません。ですから、まず自分の中に平和を生じさせる必要があるのです。

それに対し、現実の困難から目を背けているのではないか、あまりにナイーブで無責任ではないかという意見もあるでしょう。状況をしっかり把握することは確かに大切です。しかし冷静にものごとを見ることは、思うほど簡単ではありません。さまざまな事柄が複雑に絡んでいるのが現実世界であり、私たち自身が知らずに「悪」に加担していることさえありえるからです。

それでも確実なことが一つあります。それは、世界の動向を握っているのが「憎い敵」でもなければ私たち自身でもなく、神ご自身だということです。その神は、大切なひとり子イエス様を十字架につけるまでに、この世界とその中に生きる私たち一人ひとりを愛しておられるお方。そのお方への信頼を深めるとき、「あるべき正しさ」を自分の力で達成しようと動き回ることから解放されていきます。
またナウエンは、神の愛を深く受け止めていくことは、その愛が自分だけでなく敵対する人々にも及んでいることに気づくことだと語ります。その気づきが得られるとき、イエス様の十字架上での祈りが自分の祈りとなっていくはずです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23章34節)。

祈りによって神の愛に身を浸すこと。それは最も着実な「平和活動」かもしれません。